今だけの二人

「お茶をご用意しに参りました」

 サリーナは提げてきた籠に視線を落とした。籠からはポットの蓋が覗いていた。

「……ああ」

 ベルカントの返事は言葉にならなかった。タイスだと思い込んでいたこともあったが、サリーナが一人でこの部屋まで来るとは考えていなかったのだ。出征前夜、待つと言っておきながら居た堪れず炊事場に向かったのを思い出す。

 サリーナにテーブルを示して、ベルカントは扉を閉めた。

 腰掛けはテーブルと暖炉の間にあり、鍋から湯を取る時に邪魔になる。ベルカントは寝台に腰を下ろした。静けさの中で、鍋の沸く音が穏やかに時を刻む。


 サリーナはテーブルに布を引き、茶器を広げ始めた。タイスと違って黙々と作業する、その手つきは優美で、貴族社会で躾けられてきた品を感じさせた。が、丁寧な分時間はかかる。

 手持ち無沙汰と沈黙に堪えかねて──というほど実際は長くないのだが、ベルカントは口を開いた。

「イヴェットは、元気か」

「はい。無事に男の子がお生まれになって」

 作業しながら返す様子に怯えはない。緊張はしているのだろう、顔は伏せたまま手元ばかり見ている。

「こっちへ来てよかったのか」

 向こうにはリオネルと側近がいる。視察が訪れることもなさそうな僻地だ、村人は突然現れた国王への対応に困っているだろう。

「はい……村のおかみさんたちが来てくださったので、イヴェット様にお許しいただけました」

「そうか」

 悪かったな、などと言おうとしてベルカントは言葉を切る。王となる者が軽率に謝罪を口にすべきでない。大義のために〝悪いこと〟を積み重ねた結果が今の状況を作っているのだ、聞かせるだけ空々しい。


 暖炉のほうに向いていたサリーナが振り返って、湯を入れたポットをテーブルに置く。注ぎ口から湯気とともに茶の香りが立った。

「お待たせしました。どうぞ、お席へ」

 サリーナが微笑んだ。初めて彼女がベルカントだけに向けた笑みだった。

 テーブルには茶器のほかに素朴な焼き菓子が数枚並んで、その向こうに暖炉の火が燃え、腰掛けの脇でサリーナが待っている。ささやかだが温かい風景は、覚めてほしくない夢のようだった。

 ベルカントは寝台から立ち上がったものの動けなかった。席に着けば目が覚めて、二度と同じ夢は見られない気がした。まさか。

 確かめるように一歩、二歩とサリーナに近づく。俺は今、どんな顔をしているのだろうかとベルカントは考えた。サリーナが笑みを消すのを見て苦しくなる。これは現実だ。もう二度と再現できない、夢と同じで。

「これをお返しいたします」

 サリーナが隠しから取り出したのは書状だった。チチェク国章の封蝋が押されたそれは、モンテガント公宛にしたためたイヴェット庇護の嘆願書だ。

「使わなかったのか」

「イヴェット様が、どのようなものでもリオネル様のご判断に従いたいと。お気持ちには感謝しておいでです」

「なら、いい」

 ベルカントは嘆願書を受け取ると暖炉に放り込んだ。火が点いた紙はゆっくり燃え縮み、蝋は溶け落ちた。

 沈黙は、手の空いたサリーナにも重圧なのだろう。立ったまま火を眺めているベルカントへ、今度は手巾を差し出した。

「これは、ひとつに戻ったあとはどうすればよいのでしょうか……?」

 見ると、手巾には「約束の月」が乗せられていた。

 本来は家族や恋人同士で離れている間の無事を願うためのもので、粗末な木片は再会を果たしたら役目を終えて捨てられる。

「ああ……」

 暖炉にべるつもりで伸ばしたベルカントの指は、寄り添って円を作る二切れを前にして止まった。

 これを捨てたら、二人を繋ぐ物は何もない。いや、最初から運命は味方していなかった。あの粉屋に一人置き去りにして、今頃はもう、存在すら忘れていたはずだ。

 では今こうして向かい合っているのはなぜなのか。セミフは「月の導き」と言ったが、違う。サリーナはあの日、閉めかけた扉をこの手でこじ開けた。

 ベルカントは手巾を捧げるサリーナの手に自分の左手を被せた。一瞬サリーナの驚いた顔を見たが、そのまま引き寄せて抱きしめた。

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