血塗れの儀式

 炭が崩れる音で少女は目を開けた。いつのまにかくべた枝は燃え尽きて、残った火種が静かに赤く光っている。暗闇の中で静かに灯るそれは敗者が隠し持つ復讐心のようだった。

 枯れ枝を差し入れては息を吹きかける作業を何度か繰り返し、やっと炎が上がる。焚き付けは慣れない作業だった。何かを灰にするのが仕事だったのに、今は懸命に火を守っていると思ったら、笑いがこみあげてきた。

「少しは眠れたか?」

 騎士の声がした。寝始めと同じ姿勢で、目を閉じたままだった。どうやら一人笑いは見られずに済んだらしい。

 まあ、と少女は掌で笑みを拭った。頰で乾いた泥が落ちる。気づけば体温も戻り、指先にも力が入る。この調子なら、横にならなくても朝までには小技のひとつふたつは出せそうだ。

 騎士の体力も回復しただろうか。少女は問いかけたが、騎士は返事のかわりに、少し話してもいいか、と切り出した。

「国境まで行くのは、やめにしないか」

 騎士の提案は意外なものだった。将来を約束された若き貴人。務めを果たして中央へ帰れば、ゆくゆくは軍の要職に就くはずの。

 少女は改めて騎士を見つめた。岩に体重を預けてはいるが、膝を立ててすぐに剣を抜ける体勢をとっている。表情は読めない。

「さっきので死んだってことにしておけばいいさ。この森を抜けたら、ふたりして違う名を名乗って、別人として生きるんだ。力を隠して」

 騎士が言葉を継ぐたび、少女の鼓動は早まった。魔法を使わない自分など想像したこともなかった。誰よりも力を必要として、利用して生きていたのは他ならぬ自分だと思い知った。特別であることに翻弄された半生。しかし、平凡であったなら、ここまで生きて来られただろうか?

「国境まで行くなら、越えて他国に入ってもいいかもな。名前は、ありふれているものにしよう。マルリルなんてどうだ? おまえは俺のを考えてくれよ」

「……だから、次から次へとまくしたてるな」

 少女はやっとそれだけ返した。炎を取ったら何の取り柄もなくなる事実にたじろいだばかりだというのに、今はもう、普通の少女としての生活を想像し始めている自分に戸惑う。小さな民家で、騎士と囲む質素な食卓──悲しいかな、平凡を知らぬ少女にはその程度の絵しか描けない。ただ、騎士がそばにいてくれるなら、まだ眩しくて見通せない道のりをどこまでも行ける気がした。

 ぱちん、枝が爆ぜる。少女は現実に引き戻された。自分が凡人として新たな一歩を踏み出すのはいい。だが、騎士にとっての最善は中央に帰ることだ。森を抜けるまでは協力するとしても、その先はそれぞれの向かうべき場所へと道を分かつべきだろう。

 言おうとして、少女より先に騎士が口を開いた。

「一緒に行きたかったが」

 区切って、息を吐く。「……どうやら、難しいようだ」

 騎士の口の端から血が流れ出た。薄く開けた目で表情を強張らせて近寄る少女を見て、笑った。

 なぜ、と伸ばす少女の手が震える。右脇の傷を負ったあたり、破けた布地の縁を血が固めていた。

「触るなよ、毒だ」

 脇に受けた刃に塗られていた。傷を負った直後に川へ飛び込んだおかげで薄まったが、その分効き目が回るのに時間がかかったのだろう。体内を蝕まれた騎士は、すでに指を動かす力もないようだった。

「嘘だ」

 少女の涙声。いつからだ。ここに腰を下ろした時? 川岸から森へ入った頃にはもう? いや、斬られた瞬間にはわかっていたのではないか?

「悪いな、〝火竜姫様〟」

 こんなときでも、騎士は笑みをこぼす。溢れてくる血にむせながら、少女に離れろと促す。瞼からのぞく瞳は、もはや光を宿していなかった。

「生きろよ……マルリル」

 消え入るように呟いたのを最後に、騎士は目を閉じた。

「嘘だ」

 少女はその場にくずおれた。

 視界を焼き尽くすことはできても、毒を解す術は持たない。どこまでも自分は無力なのだ。

 打ちひしがれて涙がこぼれるより早く、少女の脳裡に一案が浮かんだ。人伝に聞いた自身の出生秘話。サラマンダーの生き血で死の淵から蘇った魔女──それが本当なら、自分の血にも同様の効果があるかもしれない。

 閃くや、騎士の腰から短剣を抜き、指を切った。湧き出てくる血を口に溜める。鼻に抜ける甘い匂いは、確かに騎士から流れるものとは違う。

 騎士の顔にそっと手を添える。騎士の血に触れれば自らも毒に侵されるかもしれなかったが、迷いはない。温もりも、穏やかな笑顔も、今までずっとここにあった。もう震えは止まっていた。

 この口づけが、海風の吹く丘で、野の花に祝福された契りであったなら。

 燃える火に照らされた血塗れの儀式を、天の星だけが見ていた。


* * * * *


 小枝で顔を弾き、頰に線状の熱が走る。途端に視界が開く。左右に切り分けられた薮が、来た道を戻っていることに気づかせる。

 少女は駆けていた。激しく脈打つ心臓の音に責め立てられて、無意識に体が動いた。

 水を吸ったローブの重さ、騎士の短剣を握った右手、左手の傷とその痛み。思い出してやっと、少女は自分の輪郭を取り戻した。乱れた呼吸に混じる、血の匂い。

 息苦しくても足は止まらなかった。昨夜の戦場には、追っ手がまだ潜んでいるかもしれない。わかっていながら、とにかく進むしかなかった。木の根や石を避けて地面を蹴り、体を前に送る。この速さでは、幼な子の足でも追い抜けるだろう。森を抜け川岸に出る頃には、朝日に目覚めた鳥達が歌い出していた。

 確かに、生きて欲しいと望んだ。しかし、一度動かなくなった騎士が呼吸を取り戻した時、少女の足元はぐらついた。

「よかった」

「信じられない」

「もう大丈夫」

「なぜこんなことができる?」

 私は、何なのだ──。

 次の瞬間にはもう走り出していた。

 波打つ川面は少女の顔を映さない。震える両手で水をすくい、顔を洗う。流れ落ちる雫はかすかに甘い香りがする。

 折からの風に、森から鳥が飛び立つ。対岸には、黒く焼けた森がどこまでも続いていた。

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