第3話 奈落へ

(3)



 メトロの電車が行合うホームで僕等はベンチに腰かけている。

(…どういうことだ)

 黙心に投げかけた言葉は、今の自分の状況を端的に指しているのではない。何故ネットで使っている自分の変名が分かったのかと言う事に対してだ。


(おいおいネットだぞ…)


 ――普通分るか?


 多くの人々がコメントを載せるだろうネットには数多くのネームがある。それは際限なく無数だ。そして限りなく自分自身とは無関係な存在として演じる為にある。

(…だろ?)

 なのにだ。

 目の前の美しい若者、――『燕』と名乗った人物は自分のネット上の変名をズバリと言った。

 自分の性『阿刀』に掛けて――アトムとした変名を。


「そんなんわなぁ。めっちゃ簡単、簡単よ」

 僕はドキリとした。まるで僕の心の中を覗いて相槌を打ったかのような彼の言葉。

(どういうことだ…)

 驚きに声を掛けて、僕は顔を若者に向ける。

 彼はニッと笑うと足を組み直した。

「まぁ…全てはワイの手帳で分る。分かるのはネットのそんな事だけやない。あんたの銀行カード、クレジットカード、いや、いや何ならあんたの女の好みも、…セックスの趣味もやで」

 この外見があまりにも美しい若者が喋る様な内容では無いことが、余計際立って僕の心の中に不気味さを醸し出す。それが心でさざめき立ち、肉体を硬直させた。

「まぁ、そない緊張せんでもいいよ。ワイは直ぐに帰るから。用件済ませたらね」

 彼はそう言うと、ぷぃと後ろを向いた。それから今度は前方を見る。何だろう、傍目に見ていると何かに感づいて探しているように見えた。

 僕は恐る恐る声を出す。

「…あの。何か?」

 彼は手を左右に振る。

「…いや、何でもない。気のせいか…」

 そう言うなり今度は僕の方へ顔を向けた。向けると舌なめずりをした。

「…ワイが訊きたいのは、なんでさ。あんた『空海の首』に興味を持ったんや?誰かにでも聞いたんか?」

 僕は黙った。

 黙ってどうすべきか考えた。


 ――答えるべきか、この美しい若者に


「まぁどっちでもええ。どちらにしてもあんまりあんたの結論は変わらんから」

 僕は再びドキリとした。

 まるで心の中を読んでいるかのような彼の言葉の追撃。

 そうとしか思えない。

 僕は背に汗が流れるのを感じた。

 冷汗だ。

 若者は足を再び組み直すと、顔をやや前面に上げながら語り出した。

「あいつ――空海は、ワイに貸しがあった。大きな貸しや。それも三つや」

「みっつ…」

「せや」

 彼が向けた三本指を魅入る僕。

 彼はその手を左右に揺らす。

「あいつなぁ、土佐の室戸岬の洞窟で願を掛けよったんや。どうしても『唐』へ渡りたいと」

「とう…?」

 またしても僕はしでかしたらしい。燕という若者が僕の方を見てきつく唇を尖らせた。

「ちゃう。『唐』や」

「あ…、『唐』ですね」

 彼は頷くと話を続けた。

「それは何故か?今までしてきた修行では自分がどうしても分からない大日経の『秘密』があり、それは宇宙の言語である真言と印が必要だと知った。そしてこれは日本では自得できず、『唐』に行き手ほどきを受けねばならない。

 つまり大日経の不明部分を解き真言密教の秘術を日本に持ち帰るために。故に、自分を『唐』へ渡らせて欲しいとな」

 言うと、三本に伸ばした指から人差し指一つを立てて自分に向けた。

「つまりこのワイに。だから叶えてやった」

「えっ?」

 驚きである。

 その時、僕の驚きとともに電車がホームに滑り込み車輪の音を軋ませて停止した。ドアが開き、客が降りて来る。

 降客はベンチに腰掛ける僕等に見向きもせず、帰路を急いで去って行く。

 夕暮れ時のメトロは客で溢れかえっては、去って行く、まるで空海が願を掛けた土佐の波打ち際の様だ。

 燕は人混みが去るのを待って人差し指を伸ばしたまま言った。

「ワイがその願いをかなえるためにしたこと。その一つ目はあいつが入唐したいと言った時には既に遣唐使船は難波の津を出ていた。だから暴風を起こして船を航行不能にさせ、都へ引き返させた。だからあいつは九州へ行き、そこで修繕を終えた遣唐使船に乗ることができたんや」

 すると次は中指を立てる。

「二つ目は唐においてだ。唐の青龍寺の僧『恵果』と結ばせるように仕組んだことだ。恵果は真言密教法主の阿闍梨だったが、灌頂と言うのを未だしておらず、つまり自分の真言密教の法を伝える事をしていなかった。まぁ分かり易く言えばお眼鏡にかなう人材がいなかったのだろう。だが、齢六十を過ぎており、既に病状の床に在った。だから焦りもあっただろう。そこでワイが金剛薩埵こんごうさつたの姿になり、枕元に立って言ったのだ。

 ――お前が注ぐべき真言密教法の器がそこまで来ている、その名は空海。

 まぁそれだけや。後は全て歴史の知るとこ。空海は恵果から伝法灌頂を受け、真言密教最高位の法主阿闍梨になったんや」

 僕は喉をごくりと鳴らす。

 どうも彼は自分とは具合が違う。いや、毛色と言うか、世界と言うか。

 と言うよりもなによりも自分がさもその時を見て来たようなその肌加減さ。僕には夢物語のように聞こえるが、現実リアルがある。

 

 夢と現実の狭間が生まれている気がする。


 では自分は一体…


 ――誰と話しをしているのか。


 この『燕』と言う美しい若者は何者なんだ!?


 彼は舌なめずりをして唇を十分濡らしてから最後に薬指を立てた。

「そして最後のクライマックスやけどな。本来ならば空海は留学僧として二十年唐に居なければならなかった。だがワイがそれを呪力で変えたんや。

 どうやってか?

 そりゃ簡単よ。遣唐使を再び派遣させるように藤原氏の誰かを呪力で操作し、朝廷にはかりごとを仕掛けて高階真人を唐に行かせたのさ。そしてそこで空海と出会わせ、見事日本へ引き返させたちゅうわけや」

 彼は舌なめずりをして僕に振り返る。僕は、――彼が自分を見るのを見て再び舌なめずりした時、――邪な蛇を感じた。

 それはとてもずる賢く、生まれたばかりに卵を飲み込もうと乱杭歯を大きく開けて捕食する蛇だ。

 不思議だ。

 脳がぐらつく。

 脳震盪のような感覚が自分の身体を震わす。燕と言う若者の美しい貌が、ぐるぐると回り出して声が響いた。

「――では、空海がワイと何を条件に約したか。それはあいつの望みを叶えるために、あいつ自身をワイに渡すことや。つまり――即身仏と成ったあいつ自身の頭蓋をワイが頂く。そうすれば高僧の霊力極まるものをワイが胎内に宿し、そして妖力を強くできる。

 それが、ワイが空海と決めた約束」


 意識が混濁して妖しい言葉が響いた。

 

 …だから約束通りに従っただけさ


 その声が聞こえた時、僕はよろめく様にふらりと席を立った。立ちながら、その足はホームの端へと何かに導かれるように後退さってゆく。

 それは自分の望む意思とは全く違う。


 混濁する意識の中で燕の声が響く。

 

 …奈落へ行くがいい、阿刀マオ。

 どうせお前は魂が既に半分無いのだ。

 それは近いうちに黄泉の世界へ運ばれることを意味している。

 ならば、それを俺が早めてやるさ。


 …そう、お前は探してはいけない物を探してしまったんだ。


 僕は若者を見た。見れば彼の眼が僕の意識の中で大きくなる。視界が捉える世界がぐるぐると卍上になってゆく。その中心で自分を捕らえる眼が見えた。

 それは紫を放つ妖の眼差し。蛇が蛙を捕らえて動かさない、そんな魂を痺れさせる眼差し。

 その眼の下で舌なめずりした唇が大きく開いた。


 …ほら、見るがいい。

 黄泉へ行くおまえへの手向けに見せてやろう。

 これがお前の探していた

 首だ…


 美しい若者の口が裂ける様に開くと、その口腔内に舌から運ばれて何かが現れた。


 それは…

 金色に輝く首。


(これが…)

 僕の足は最早自分ではどうすることが出来なくなっていた。

 そして僕の踵がホームの端から後僅かで落ちようとした時、突如、卍の世界を霧散させる風が吹いて声がした。


「そう、空海の首さ」


 僕は強烈な力で自分の手を引き寄せられて背後に猛スピードで過ぎようとする電車から助けられたのだと分かったのは、自分を引き寄せたメトロの駅員が御厨さんだと分かった時だった。







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