月夜見――ツクヨミ――

 無線を切った後、渡はビルの屋上まで舞い戻る。

 屋上から数百メートル先のビルの屋上まで飛び移り、更に先のビルへ。それを繰り返して、車やバイクなどよりも圧倒的な速度と機動力で、渡は帰路に就いた。


 派手に空を飛ぶ渡だが、それを認識できる人間はほとんどいない。存在をあやふやにし、認識できなくなる隠形術は、人知れず怪異と戦うスサノオ機関に所属する人間の必須スキルだ。


 渡の帰宅は、玄関からではなく窓からが大抵である。そっと窓を開けて家に戻る。

 高級マンションのセキュリティは万全で、最上階であっても窓からの侵入者を警戒する装置がいくらでもある。

 しかし隠形術はその全てを突破する。どんな優れた検出技術も、存在そのものをあやふやにしてしまえば効果はない。


 だというのに。


「おかえり、わたる」


 渡の隠形術は同業者さえ見抜くのが難しい程の精度だというのに、しかし家の中、ベッドに居る少女には無意味だった。

 扉を開ける音でも聞こえたのかと思うが、そもそも隠形術はごとあやふやにしてしまう術だ。つまり、少女は単純に小細工なしに視えていたということになる。


 渡と同じ、金色に輝く瞳の少女――御使ミコ。渡が名を与えた、名もなき少女。スサノオ機関による科学的、呪術的な計測の結果は、どうやら渡よりも三つ歳上らしい。

 しかし、体格は自分よりも一回りも小さく、その精神は儚く弱々しい。


「ミコ、まだ起きてたの?」

「ん。……わたると、いっしょに、おやすみ、したかったから」


 朧げに、眠たげに、ミコは言う。意識は朦朧としていて、いつ眠ってもおかしくない。


「そっか。あとちょっとだけ頑張れる?」

「うん……。がんばる」


 カラスの行水で汗を流して、着替えてミコのもとに戻る。ベッドの上であぐらをかく。ベッドボードに背中を預けて、ミコに向かって手を広げた。


「おまたせ。……おいで」

「……ん」


 ぽすん、とミコは渡に抱き着き、身を委ねる。抱き寄せ、とん、とん、と規則正しいリズムで背中を叩く。全幅の信頼故か、それとも今の今まで眠気を堪えていたからだろうか、ミコはすぐに穏やかな寝息を立て始めた。


 彼女を夢の世界から覚まさないように細心の注意を払いつつ、機関から支給されている特殊なタブレットを使って情報を集める。


 ふいに画面の上から通知がポップアップする。特班の副班長からだった。


『班長。全員帰投しました。何か伝言などはありますか?』

『ありがとうございます。今回でしばらくは霊相も安定すると思われます。各自、ローテーション式で何日か休息を取るように伝えてください。連日の出動に協力頂きありがとうございます。お疲れ様でした』

『了解しました。メンバーに伝えます。ところで班長』

『どうかしましたか?』

『観測班には行きませんよね?』

『行かないよ』

『そうですか。即答頂きありがとうございます。危うく全員で班長の家まで押しかけるところでした』

『僕は誰にも家の住所を教えていないはずですが』

『特班副班長、退勤します』


「逃げたな。……全く」


 苦笑する。彼女達に振り回される生活も、ようやく慣れて来た。


 その場からは動かずにタブレットを片付けて、完全に寝入ったミコを慎重にベッドに寝かせる。眠っていても渡が離れたことを察したのか、ミコがうなされ始める。


 抱く代わりにミコの小さな手の平に自分の手を重ねると、ミコは赤子のようにぎゅっと握りしめた。強く、強く。決して逃さないように。


 彼女のそれは、赤子の把握反射だ。


 彼女は呪術的な方法で三年前まで、。自我と生体活動を停止させられ、白いキャンバスのまま生命を維持させられていた。いかなる存在にでも染まることができるように。


 元々の素養が優秀なおかげでようやく意思疎通ができ、自分の意思も持つようになったが、しかしそれでも彼女の内実は三歳の幼女でしかない。


「…………」


 ミコと手を繋いだままでしばらく。渡は本を読んでいた。聞こえるのはミコの寝息とページをめくる音だけ。

 怪異は夜に出現する。その怪異を倒すという仕事の性質上、夜型の生活にならざるを得ない。今から数時間は、どうあがいても眠れないのだ。


 読んでいるのは本屋に積まれていた新刊の中からタイトル買いしたモノだ。どういう内容かは、半分程読み進めているが、正直頭には何も入っていない。


 物語を読むのではなく、文章をなぞるだけ。本を読んで格好をつけたがっているという訳ではなく、本に集中できる程の余裕が今の渡にはないだけ。


 ミコがいつ起きるのかも分からないし、――が満月夜のいつに現れるのかも分からないからだ。


 そして、その時が来る。


「っ」


 不意に、空気が切り替わった。場を圧倒する程の存在感に身体が一瞬反応してしまう。同時に、ミコは起き上がっていた。


 起き上がるという一連の動きを切り抜いて破棄したような瞬間的な変化。つい先程まで寝ていたはずのミコが、いつの間にか起き上っていて、こちらを視て微笑んでいた。


「…………。何が視えますか?」

『過去と現在いまと未来の、陰なる部分全てだ。君も視えているんだから、聞かずとも分かるだろう?』


 明確な意思が、そこにあった。ミコのいつ壊れてしまっても不思議ではない儚いモノとは全く異なる、はっきりとした人格がそこにあった。――否、神格と言うべきか。


「それで。今回は何の用ですか?」

『冷たいねぇ。別に大した用ではないさ。私という存在がこの世に顕れる、ということ自体が重要なんだ。陽の象徴たる日輪あねうえと、陰の象徴たる玉輪わたしが、正しき時に正しく顕現している。即ち、この世のシステムが正常に動作している、ということがね』


 ミコに宿るのは、玉輪。月を意味する存在。満月夜に現れ、世を見通す怪異。月夜見――転じて、ツクヨミ。日本において最も古き時代の怪異かみである。


「でしたらミコ以外に降りてくれませんかね。貴方の顕現はミコには負担でしかない」


 人間と神では、存在の格が違い過ぎる。その一部のみの降臨とはいえミコの肉体と精神を大きく疲弊させてしまう。

 月の権能をミコから譲り受ける、という体で負担の大体を渡が肩代わりして、ようやくなんとかなっている程度。それに、渡はその代償として、多くのモノを失っている。


『私がこの器に縛られているのは、君の村のせいだろう』

「…………」

『冗談だ。自分の責として捉えるのはやめた方がいい。それじゃあいつか君は潰れてしまう。いつの時代も被害者面している方が生きるのは容易いものだよ』

「あの村全体が、貴方を喚ぶ為のシステムだった。……そのシステム歯車一人だったんですから、俺だって共犯でしょう。それに俺はどうなったって構わない」


 それが渡の本心だった。御使渡という存在がどうなろうとも構わない。ツクヨミの降臨というミコにのしかかるはずの負担を器でもない身で背負うことも、結果として己の寿命を現在進行系でゴリゴリと削っていることも、味覚や嗅覚を失っていることも、どうだっていい。


『全く。君は生きるのが下手だね。いや、死ぬのが上手いと言うべきかもしれないけれど。しかし、我が不肖の弟の名を冠する組織のエースが、それでいいのかい?』

「関係ないでしょう、それは。それに、俺以外の面々は、そういう意味では機関に相応しい在り方をしていますよ」

『じゃあやっぱり君がおかしい訳だ』

「多分、陰のある誰か様の、加護の影響じゃあないですかね」

『はははは!』


 スサノオ機関の上層部の前で繰り広げれば、間違いなく全員が卒倒するであろうやり取り。

 だが実のところ神の前で不敬たる発言をしたところで、何か天罰が下るようなことは滅多にない。いや、スサノオ機関は一度神罰を喰らっているので、それなりにはあるのだろう。とはいえ、その辺りは神にとっての不敬と人間の不敬は違うというだけの話だ。


 それに神は、己の役目以外には無関心である。人間に対して友好的だったり気難しいような性格に見えたりするのであれば、それは己の役目においてその方が、都合がいいから。

 自分の役目以外のことで、何をされても何を言っても神は意識すらしない。逆に己の役目を妨げられるようなことがあれば、それはもう烈火の如く怒る。


 究極の自己中心主義。それが神の本質である。


『さて、じゃあ本題に入ろう。権能が示す通り、しばらく怪異は出現しないだろう。おおよそ、一週間程は』

「で、その一週間で、何をしろと?」

『話が早い。丁度、ついさっき話題に上がった、君の村のことだ』

「……あの村はもう無くなっています」

『だが、儀式の場は消えていない。神を降ろしたあの場所は、要注意地点だ。そんなあの場所に、どうやら最近侵入者が現れたらしい。だから君に調査を頼みたいのさ』


 ミコが絶対に浮かべないような、企みに満ちた笑みを前にして、渡は三年前を思い出す。


 何もできないまま、何も分からないままに、全てが終わり、始まったあの日のことを。

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