第2話 震えと出会い

 水まんじゅうを見ると思い出すのは、今は亡き祖父のことだった。一時期、ここ鞍玉町にある祖父母宅で暮らしていたことがあった。こっちで住む家が決まるまでの一か月にも満たない短い間だったらしいが、当時の自分はもっと長く感じていた。多分、新しい環境と幸せな思い出がそう思わせたのだろうと、今になって思う。

 そんな折に祖父は、外出しては度々お土産を持って帰ってくれた。大きくて地味な色の紙袋、その中身は菓子だった。色とりどりの甘味は子供頃の目には輝いて映っていた。でも僕が特に好きだったのは、比較的色合いが地味な水まんじゅうだった。色を持たず、透き通るようなその皮をどこか神秘的に感じて。それを知ってか知らずか、祖父は毎回それを選んでくれていた。まぁ、そんな思い出。それなりによく覚えているものだ。勉強はからきしだが、こういうことは不思議と忘れないものだ。


 最後の一口も無くなり、手に残るは空の包装。くしゃりと握りつぶし、乱暴に袋へ放り込む。思い出が塗り変わらない内にさっさと捨ててしまいたかったのだ。しかしこれ、どこで捨てるか。たしか反対側、商店街のある方にゴミ箱があったはずだ。

 ベンチから立ち上がると、体中の関節やら腱やらからにぎやかに音が鳴る。それほど長く同じ姿勢でいたわけでもなかったのに。

「そうか」遅れて理解する。座っている間も体中に力が入り続けていたことを。そして、未だにただの一度も安息を感じていなかったことに。一度意識してしまうと、震えを、身体をうまく抑えることができなくなってしまう。

 わからない、わからない。でも、鼻の奥がツンとしてくるのはなぜだろう。何に対してなのかもわからずに溢れる涙、それを前に僕は無力だった。止める術もなく、ただ上を向いて目を閉じ、歯を食いしばって声を飲み込む。そうやってジッと堪えるほかなかった。

 僕はどこにいるのだろうか、わかりきっているはずの問いかけがぐるぐると頭を回り続ける。

 瞼越しに感じる晴天の下で音もなく地に染み込む雫。熱気に覆われた夏の日だというのに、峯野縁嗣の時間は、凍り付いた。


「「「募金のご協力をお願いしまーす」」」

 長いようで短くもあった時間を溶かしたのは響いてくる声々だった。まだ眩しい視界、数人の募金箱を下げたジャージ姿の集団が見えた。彼らの腕にはお揃いの黄色い腕章が光り、『鞍玉高校ボランティア部』とある。近隣の学生が活動しているのだろうか。

 大きく聞こえる彼らの声はどこか熱心で、なにごとかと足を止める人も現れる。それを見逃さず近づく影、手にした紙束から一枚一枚渡して何やら説明を始める。そして資料片手にフンフンとうなずき、募金箱に寄るスーツの男。彼を皮切りに人々は列をなし始める。

「「「ありがとうございまーす」」」

 募金をする一人一人に頭を下げる彼らの表情はにこやかで、爽やかでさえある。きっとこの瞬間も彼らにとっての青春の一ページになるのだろう。でも、彼らが掲げている支援や救済とはどこかズレているように感じてしまって、どこか引っかかってしまうような。

「それ、ゴミですか」

 不意に横からかけられた言葉。瞬間、顔を背け反射的に腕で目をぬぐう。カサカサと音を立てて揺れるビニール。涙はもう乾いていた。やがてその言葉が指しているのがこの手の袋であると合点し、

「そうだね。これは…ごみだ」

 少々鼻声気味きはなったが答える。返答の先はジャージ姿の少女。見覚えのある腕章、手には大きなゴミ袋とアルミトングがあった。


 ゴミ袋の口をこちらに広げ、

「よければ、どうぞ」と一言。その表情は硬い。「ああ、こいつはどうも」

 クシャ、と小さくまとめてから袋に放り込む。白いそれは吸い殻やちり紙などのこまごましたゴミに混ざり、元からそこに入っていたかのように馴染んでいく。それをぼんやと眺めていると、

「観光ですか、えーと、おにいさん」

 彼女が問いかける。その顔は先ほどよりも和らいでいた。

「うん、そうだねぇ。観光――、…ではないかな」例の垂れ幕を思い出し、否定に切り替える。断じてその手の物好きなマニアではないのだ、断じて。

「里帰り、みたいなものだよ。昔住んでいたんだ、ここに」

「へぇ、そうなんですか。あのまんじゅう食べてたみたいなんで、てっきり」

 そう言いながら頭をかき、申し訳なさそうにしている。やっぱり観光客向けなのか、アレは。僕としては小腹を満たしたかっただけなのだが。

「どうですか。久しぶりの、この街は」

「どうかって言われると難しいけど…、昔とまるっきり同じとはいかないなぁって。まぁ、当たり前だけど」

「がっかりした?」「それは…」

 思いがけなく投げられたその静かな問い、返すべき言葉は喉に張り付いて出てこない。どうしてそんなことを。心の内を読まれてしまったようで、おそろしかった。

「私はそう思ってほしくなかったかな。だって、私、この街が好きだし」

 沈黙を肯定と受け取ったのか、視線をやや下げた彼女はボツリと呟く。気まずい間、ひどく居心地が悪い時間がジットリと流れる。

「……だからそういう?」と、彼女の手元を指す。やっとのことで口をついたのは、とてもつまらない質問だった。

「そう、この街のために、ね。私なりのやり方だけど、できることはあるんだって」

 指さしたゴミ袋をこちらに軽く掲げる。その表情はどこか誇らしげだ。

「少なくとも、私が見ている範囲ではこういうのはあってほしくないんだ。私が想うこの街は、美しいものであるべきだから。ただそれだけ。まぁ、貴方に声をかけたのも、その一環ってとこかな」

 優しいまなざしで街を見る彼女。きっと彼女の理想はここに……いや、待て。僕がポイ捨てするような人に見られていたのか。なんと、心外な。でも、彼女はこの街と生きようとしているのだろう。自分の持っていた郷愁がクダラなく思えるほどに、彼女の目は、生き方はまばゆく映る。

「それは素晴らしい心掛け…だね。そういえば、そんなに落ちてるものなのか、ゴミって」

「まぁね。観光客が増えたってのもあるけど、喫煙所とゴミ箱がなくなったのが大きいかな」

「なくなった?」

「そう、代わりにあんなのができるなんて」

 何が、と知りたかったが答えは返ってこなかった。見たらわかるから、と肩を叩き彼女は去っていく。どうやら向こうで集合がかかったようだ。軽い足取りで遠ざかる背中は小さくなり、やがて同じ色に混ざり消えゆく。それを見送ってから僕は向かう、答えを知るために。

 不思議と身体の震えは収まっていた。

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透明人間を消すための方法 三柿にしん @mikaki_nishin

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