アンゴルモア・ガール

しがない

1

 屋上のドアを開けると気分が悪くなるくらい青い夏の空とにたにたと笑っている内藤さんが見えて、ああ、そう言えば今日は予言の日だったな、と思い出す。失敗をした、と考えた時にはもう遅くて、いつの間にか近づいていた子供のような残忍さを持つ双眸が僕を捉えていた。

「よく来たな。君が最初の最後の人間だぞ」

 最初の最後の人間。頭がこんがらがりそうになる表現だけれども、彼女の予言について知っていれば意味を咀嚼することはそれほど難しいことではない。

 八日前の火曜日、三限目の古典の授業。内藤さんは突然机の上に立ち上がったかと思うとそれはもうツァラトゥストラも驚くくらいの大演説を始めた。曰く、来週の水曜日に世界は滅亡するのだと。そして、その日約束の場所に来たるものだけが滅亡から逃れることが出来るのだと。

 同じ階層中に響くような大演説によって引き寄せられた教師によって強制的に終了させられたその演説は、彼女の熱量と反比例するように誰の心も動かすことはなかった。考えるまでもない当然のことだ、いきなり世界が終わるなんてことを根拠もなしに言われたところで誰が信じるのだろうか。

 しかし嘲笑の中で処理された妄言を、それでも内藤さんは曲げなかった。曲げないどころか、延々と語り続けた。休み時間、授業中、各部活動にも顔を出して回ったという。仕舞いには教師から謹慎の処分を受けて昨日までは別室で授業を受けていたところだった。

 共感性周知すら覚えるような大演説は途中から聞かないように意識を逸らしていたけれど、約束の場所とやらは屋上だったのか。よりにもよってどんな偶然だよ、と小さく舌打ちをする。

「いや、僕が来たのはそういう理由じゃなくて」

「じゃあなんで来たんだい。屋上なんて自殺するか避難するかくらいしか使い途のない場所だろう」

「……他にもあるだろう。空を見たいだとか、人の居ない場所に行きたいだとか」

「ふうん、奇妙な趣味を持ってるんだね。まあいい、いずれにしてもこの偶然を逃す手はないよ。世界が滅んでも君は助かることが出来るのだから」

 内藤さんは相変わらず真面目腐った表情で滔々と終末を語る。この期に及んで韜晦や諧謔をしているようにも見えず、どうやら本気で世界の終わりとやらを信じているらしいと今更になって気が付いた。

 どうすべきかという自問の答えが出るよりも先に、「ほら」と言って彼女は僕の手を引き屋上の中央へとずんずん進んでいく。それほど強い力というわけではない。ただ、僕の手首を握る彼女の手からは強い意志が伝わってどうにも振りほどくことが出来ない。仕方なく諦めて、ふと気になっていたことを尋ねてみることにする。

「……内藤さん」

「何かな」

「世界が終わるってどうやって終わるのかな」

「どばーっと雨が降って何もかもが流れるんだよ」

 呆れて乾いた笑いが漏れる。どこかで聞いたことがあるような終末だし、それほどの洪水が起こってこの屋上だけが助かる意味が分からないし、何より今は嫌気が差すほどの快晴だ。せめて天気予報でも見て日程調整をどうにかすることは出来なかったのだろうか。

「無理があるだろ、それは」

「いいや、終わるね」

「そんなに終わらせたいのか、世界」

「世界の終わりと私の意思は関係ないさ」

 それはそうだろうけれど、と思っていると内藤さんは「でも」と続けた。

「どちらかというと終わって欲しくはあるかな」

 呟くように言った彼女の表情に僅かばかり含まれた憂いの正体を、僕は知らないし知るつもりもない。ただ、自分とは異なる世界を見ているんじゃないかというほど離れていた彼女と自分は、進むベクトルが違うだけで案外近い位置に属する人間なんじゃないかと思った。

 内藤さんは逃がさないとでも言うように僕の手首を握りながら空を仰ぐ。相変わらずそこには目が痛くなるほどの青空がどこまでも広がっていて、とてもじゃないけれど世界の終わりが訪れるようには思えない。

 じっとりとした湿度と、身体に纏わりつく汗と熱。僕のそれとは異なり柔らかく、どちらかと言えば小さいと言えるような内藤さんの手の温度。世界が止まったように風は一向に吹かなくて、終わりが来るよりも先に僕たちが熱射病でくたばってしまうんじゃないだろうか。三つほど、大きな塊の雲を見過ごしたところで口を開く。

「内藤さん、そろそろ――」

 言葉が途切れたのは、頬を掠めた冷たいもののせいだった。その正体についての思考が回り始めるよりも先にぼつぼつという音とともに屋上の床はまだら模様を作り始め答えが提示される。

「来た!」

 内藤さんのその声が契機となるように、ざあっと雨は勢いを増して容赦なく僕たちの身体を濡らす。空を仰ぐけれど、やはりそこには雨を予感させるような雲はひとつとして存在せず、遮るもののない陽光は雨とともに僕たちの身体を突き刺し続けている。

 握られていた手が離れて、彼女は軛から解き放たれたように駆け出す。何が嬉しいのか、身体が壊れそうなげらげらとした笑い声をあげながら踊るようにぐるりと屋上を周る。

 晴れ間を縫うようにして雨が降ることは、別に超常的な現象ではない。夏場なのだ、驟雨だって有り得るだろう。けれど、そんなことは分かっていても今視界に開ける風景は確かに世界を終わらせるもののように見えた。

 もしも世界が終わらなかったら。僕ももう少しだけ僕の世界を続けてみても良いのかもしれないと思う。少なくとも今日の屋上は自殺日和ではないらしいから。

 空は青く、雨は降り続け、内藤さんは笑っている。思っていたよりも世界っていうものはマシなのかもしれない。肌に貼り付くワイシャツの不快感の中で、そう思った。

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アンゴルモア・ガール しがない @Johnsmithee

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