第3話 天使、いなくなる

マックスは愕然とした。


長い間、茫然自失の態で看板を見つめていた。


だが、看板を外して、自宅に持ち帰った。天使の自筆だ。大切に保存しよう。


文面は紙に書いて張り替えておいた。意味さえ通じればいいだろう。


女中たちは、最近は早朝から夕方まで、留守にしているマックスが、早く帰って来たのでびっくりしたが、大事そうに抱えている、ジュース屋終了のお知らせを見るともなしに読んで、納得したらしかった。


若旦那様はそのまま以前同様自室にこもると出てこなくなった。


思い起こせば。

リナは働いていた。

一生懸命。


とってもかわいかったけど、それだけじゃなかった。


嫌な客にも、笑顔で対応してた。あの痩せ騎士にさえ、笑いかけていた。

毎日、決まった時間に、商品を十分に作って店に並べ必死になって売っていた。

飲むと元気になれるジュースを。


いいジュースだった。

マックスも必ず五杯は飲むようにしていた。おかげで体調はすこぶる良い。最初は家に帰るとへとへとだったが、この頃は、毎日、動きっぱなしでも、全然平気になった。


「あのう、若旦那様」


女中のハンナが恐る恐る話しかけてきた。


「お姉さまのところに赤ちゃんが生まれたので……」


知っている。両親は大喜びらしい。


「お祝いのパーティをなさるそうです。マックス様にも招待状が届いております」


マックスはしぶい顔をして、封筒をながめた。


「いや、行かない」


どうせ自分が行ったって、笑いものにされるだけだ。出来損ないのワトソン家のお荷物。

家業は義兄が継ぐことに決まっていた。

最初からそのつもりだったのだ。

今更、マックスの出番なんかない。


「でも、お姉さまが、子どもの顔を見に来てほしいと」


「なぜ?」


なぜと聞かれて、ハンナは答えに詰まった。


両親に似ず?かわいらしい赤んぼだった。自慢したいだけなのだ。ただ、さすがに身内には自慢できても、他人に自慢したら、ただの親バカである。


マックスはしゃべらない。つまり余計な感想を言わない。どんなに自慢しても、黙って聞き流してくれる。


「内輪の会ですから、ぜひ」


ハンナはやっとそれだけ言うと、仕立て屋を呼んだからとマックスに告げた。


「なぜ仕立て屋を?」


マックスは、ジュース売り場を仕切っていた時とは、打って変わってむすっとした表情に変わって聞いた。ただし、こっちが地である。


マックスは外には出ない主義だったが、両親がそろえてくれたので、服は一通り持っていた。何を着て行ったらいいのかわからないが、ハンナに任せておけば、適当な服を何とかしてくれるだろう。


「いつもの服でいいだろう」


ハンナが言い出しにくそうに、もじもじした。


「でも、若旦那様は変わってしまわれました。寸法が合いません」


「そんなことはない」


しかし、ハンナが持って来た服に興味なさげに袖を通して、さすがのマックスも気がついた。


だぶだぶ。


服に着られているとか言うレベルではない。

特に腹回り。尻周り。太もも。

上着はとにかくズボンは二人くらい楽に入りそう。

ベルトで締め上げたくても、そんな長さのベルトもなかった。ベルトを大幅に切らなくてはいけない。


鏡の前に立って、ハンナが仕立て屋を呼んできた意味を理解した。


ハンナはなんだか嬉しそうだ。


それを横目で見て、仕立て屋への注文はハンナの好きにまかせた。


当日の朝、ハンナがうるさいので、栗色の髪を整え、もっさり生えっぱなしだった栗色のヒゲをキレイに剃り、鏡の前に立って、マックスはびっくりした。


自分のことを言うのもおかしいけど……全然違う人間が映っていた。


白豚マックスではなかった。やせているわけではなかったが、色がずっと黒くなって、目つきの鋭い普通の男が映っていた。


「坊ちゃま!」


ハンナが嬉しそうに思わずといった様子で手を叩いた。後ろでは仕立て屋が嬉しそうだ。


「若旦那様。お似合いですよ。ワトソン商会の副会長より、男ぶりではずっと上でございますよ」


「そんな失礼なことを言ってはいかん」


ちょっとマックスも、混乱気味だったが、そこは仕立て屋を注意した。



本邸に行くのは何年ぶりだろう。


本邸に行くと、知っているはずの使用人も執事も女中頭も全員大混乱になった。


「マ、マックスなの?」


姉も母も、父も、それから義兄も、そのほか使用人一同が、目を見張って、変わり果てた?マックスを見つめた。


マックスはすぐに嫌になった。


面倒くさい。自分のことになんか関心を持たないでほしい。


「姉さん、子どもが生まれておめでとう。お祝いに何を持ってきたらいいか、全然わからなかったから、町で評判の滋養強壮に効くっていうジュースにしたよ」


これは、ジュースの原液の方だ。最初のころ、そこまで人気ではなかった時、余るのだったら、譲ってほしいと高いお金で買ったのだ。半年くらい日持ちすると言う話だった。

その頃は、ジュースにも興味はなかった。ただただ、ジュース売りの天使に何とかお金を渡したかっただけだ。

天使は驚いたようで、必死になってお礼を言っていた。


その後、原液を売るなんてことはなかった。むしろ、そんなものの売り出しがバレたら面倒なことが起きたのではないか。

姉に渡したのも、薄めたジュースを一瓶だけだ。それもちっちゃいのを渡しただけだ。


「ああ、なんだか評判になってたねえ」


お産で家にこもっていた姉よりも、義兄の方が詳しかった。


「本気で効果があるらしいね。作り手は年のいかない女だと言う噂だ。一度話をしてみようかと思っていたんだ。マックス、知り合いかい?」


「いいえ」


マックスは用心深く答えた。


こんな髪を光らせて、どんな商売でも儲かりさえすれば手を出すような汚い男にかかわらせたくない。彼の天使を。


「たまにジュースを買っていただけですよ」


甲高い声で母が割り込んだ。


「マックスったら、すっかりやせて。そうねえ、なんだか精悍な感じになったわね。いい男になったじゃない」


「そろそろウチの家の手伝いを始めなさいよ。それがいいわ。家の仕事に協力しないとね。これまでは閉じこもってばかりいたんだから」


姉も言い出した。これだから面倒なんだ。人のことは放っておいてほしい。


「姉さん、それよりも、今日は大事な赤ちゃんのお披露目でしょう」


マックスが物柔らかに促すと、姉も義兄もパッと表情が変わった。

赤ん坊がかわいくて仕方ないらしい。

親バカ炸裂だった。


うん、うんとマックスはうなずいた。赤ん坊のえくぼだの、目を開けると、どちらに似ているだの、完全に興味がない。

ただ、すぐには帰してもらえなかった。


赤ん坊に夢中な姉はとにかく、ほかの家族は不穏だった。


「あれなら、店番くらいできるんじゃないですか?」


義兄が父に言っていた。


「前とは全然様子が違うじゃないですか。身内なんだし、ほかの店員より信用が置けると思いますね」


父が何と答えたかわからない。


マックスは一人で住んでいる小さな別邸にできるだけ早く戻った。



実家に帰ったのは失敗だった。


マックスは、義兄の考えが手に取るように分かった。


義兄のことをマックスは嫌いだった。自分だけが嫌いなのかと思っていたが、嫌いになるのには訳がある。


商売に抜け目はないかもしれないが、抜け目がなさすぎる。

あれでは人が付いてこない。

商売人というものは、お互いに相手を信用して付き合うものなのだ。もちろん、商売だから、付き合いきれないとか、相手の損を被るなんてことはないが、それでも、商売相手に一方的に損をかぶせても平気だと言うのは、訳が違う。


義兄の評判は良くない。


これまでマックスのことを、義兄は本当にダメな人間で、別邸に置いておく費用が惜しいくらいに思っていたに違いない。


だが、今日、うっかり会ってしまったたら、身内だから、ただで使える人間だと認識したらしい。


「俺が甘かったな」


うっかり天使に出会ってしまって、必死になってしまった。


天使は、来年、またブルーベリーのジュースを売りに来るだろうか。


義兄は不穏なことを言っていた。『作り手は年の行かない女だ』と言っていた。



「どちらに行かれるのですか?」


ハンナはあわてて、マックスに問いかけた。家の内輪のパーティから帰って来たばかりだと言うのに、また、どこかへ出かけるようだったからだ。


「ちょっと」


マックスはしゃべらない。

だが、考える。









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