第7話

 尾崎おざき先生がいなくなって、5日が過ぎた。

 食卓には、当たり前のように3人分の食事が並べられる。確実に人がひとり消えたのに、誰もそれを口にしない。お父様は相変わらず書斎にこもり、忙しく仕事をしている。お母様はきっと、尾崎おざき先生が居たことすら覚えていないだろう。

 先生の使っていた客間きゃくまは閉じられ、私物しぶつ綺麗きれいに片付けられた。まるで、尾崎おざき先生なんて最初から存在していないかのようだった。

 人間が、けむりのように消え失せるはずもないのに。


 ――その日の真夜中、僕はそっと寝床ねどこを抜け出した。


 縁側に面したあか障子しょうじが、ぼうっと光っている。そっと横にすべらせると、上空じょうくうには青い満月が煌々こうこうと輝いていた。月華げっかを浴びた樹々きぎが中庭のあちこちに濃く深い影を落とし、あやしくもうつくしい世界をえがき出している。僕は足早に回廊かいろうを進み、西へと向かった。

 西の間はしんと静まり返っていた。耳を澄ますとほんの時折ときおり、ギイギイという奇妙きみょうな音が聞こえる。それはきしみのようでもあり、また得体えたいの知れないけものささやきにも思えた。


 西の間をぐるりとめぐらせた廊下の突き当たりに、目立めだって不調和ふちょうわな1枚の鉄扉てっぴがあった。び付いた引き手に力を込めると重い扉が少しずつ開き、地下へと続く階段が現れた。階段に明かりはなく、すすむにつれやみまれるような錯覚さっかくをおぼえる。僕は寝間着ねまきふところからペンライトを取り出し、慎重にり始めた。

 った階段には、どこからか水がみ出していた。かびとなんらかの動物的なにおいの交じり合ったような空気がただよっている。

 ようやくいちばん下までたどり着くと、はずれた南京錠のぶら下った引き戸があった。扉はほんの少し開いている。僕はペンライトを消し、音を立てないよう気をつけながら、そっと身体からだすべらせた。

 中はとても暗い。明かりといえば低い天井に付けられた赤色電球せきしょくでんきゅうひとつきりで、部屋全体を照らすには到底とうてい足りない。けれどもこちらに背を向けたお父様と、格子こうしの向こうにいる尾崎おざき先生の姿だけは、かろうじて見分けることが出来た。

 尾崎おざき先生の髪は乱れ、ひたいやこめかみにべったりと張り付いている。薄手のシャツはしわだらけで、ひらいたえりからのぞ首元くびもとは汗でてらてらと光っている。けたほほには赤色電球せきしょくでんきゅうが深い影を落としていた。


「黙ってないで、何とか言ったらどうです!」

 先生は精一杯せいいっぱい虚勢きょせいを張って、そう怒鳴どなった。

「いくら貴方あなたが有力者と言えど、こんなことをしてただで済むと思ってるんですか! この法治国家ほうちこっかでは、正当な理由もなく人間を監禁かんきんする権利など、誰にもないんだ!」

 お父様は身動きもせず、ただ黙って立っている。

「いったい貴方あなたの目的はなんです! わたしをどうするつもりですか!」

 お父様は何かつぶやいたが、ここからでは聞き取れなかった。

「――確かに勝手に旧館へ侵入したことはお詫びします。ただ僕は無理やり入ったわけではありません。たまたま夜中に目を覚ましてお茶でも飲もうかと1階に下りたら、渡り廊下の鍵が開いていたんです。だからつい、好奇心に負けてしまって……でもそんなことくらいで地下牢ちかろうに閉じ込めるなんて、明らかに行き過ぎですよ! ここでは今が朝か夜かもわからない。いったい、あれから何日ってるんですか?」

 先生は身をよじりながら懸命に訴え続けるが、お父様はこころうごかされる様子も見えない。やがて先生はあきらめたのか、懐柔策かいじゅうさくって、態度を急変きゅうへんさせた。


「ああ、分かったよ! 餓死がしでも衰弱死すいじゃくしでもなんでも、勝手にしやがれ。あんたは正真正銘の狂人きょうじんだ!」

 そう叫びながら、両手で格子こうしを強く揺らした。

「大体おかしいと思ったんだ。旧館には立ち入るなだの、命令には絶対従えだの言うわりには、肝心の仕事については何の指示もない。俺は毎日暇を持て余して、誰彼だれかれかまわず世間話をするくらいしかなかった。もっとも、そのお陰で真相しんそうが見えたんだけどな」

 ここで初めて、お父様の肩が動いた。

「……真相しんそうだと?」

「ああそうだ。俺がここへ着いて早々そうそう、あんたは言ったな。『夕食の間、たとえ何が起こっても一切いっさい反応するな。また、それについて、何人なんびとたりとも話し合うことはまからん』――最初はあんたの意図いとが全く分からなかった。旧家にありがちな酔狂すいきょうの一種だくらいに思ってたからな。でも実際にこの目で見て、あんたの狙いが分かった」

「ほう、わたしの狙いとはなんだね」

「あんたの狙いは、あの子――優真ゆうま恐怖きょうふふちに追いやることだ。優真ゆうまは自分の見ているものを誰も認めないものだから、すっかり幻覚げんかくだと思い込んでいる。可愛かわいそうに誰にも相談できないまま、ひとりでおびえ切っているんだ!」

みょうなことを言う。血を分けた我が子に、何故なぜそんな非情ひじょうな真似をしなければならないんだね」

「さあな。実子じっしを2人も犠牲にする理由なんて、俺に分かるはずもない」

「2人?」

「そうだよ。あんたの最大の罪は、もう1人の息子を完全な廃人はいじんにしてしまったことだ! あの化物ばけもの夜毎よごと食べ物をあさり、屋敷内を神出鬼没に駆け回る異形いぎょう、あれは優真ゆうまの双子の兄、優太ゆうただろう!」


 一瞬いっしゅん、全ての動きが止まった。格子こうしはさんで向かい合う2人の姿が、まるで赤と黒でり上げられた版画はんがのように見える。

「……それで?」

「否定しないのか?」

「しない。その通り、あれは優太ゆうただ」

 先生は再び格子こうしを揺らした。

「あんたは優真ゆうまに兄が死んだものといつわり、優太ゆうたを西の間に幽閉ゆうへいしたんだろう。俺は、その場所を突き止めようとしたんだ――あいにくその前にこのわなに落ちてしまったが……おそらく此処ここのような地下牢ちかろうが他にもあって、優太ゆうたはそこに閉じ込められているに違いない。そしてあんたは、優真ゆうまおびやかすためだけに時々優太ゆうたを解放しては、サディスティックな欲望を満たしているんだ」

 格子こうしを揺さぶる音が、段々と大きくなっていく。

「いったい目的は何です? 優太ゆうただけではらず、優真ゆうま精神せいしんまでも破壊はかいするつもりですか? 地位と財産に固執こしつするあまり、すべてをひとめにして血を絶やそうとでもしているんですか? もしそうならあんたは狂人きょうじんだ! 幽閉ゆうへいされるべきは、優太ゆうたではなくあんた自身だ!」

 突然、お父様は身をくっしてげらげらと笑い出した。それは粟立あわだつような気味きみの悪い笑い声で、僕の背にれた引き戸がびりびりとふるえた。

「狂っている? 狂っているだと! 誰のことだ、わたしか? それともお前か? 狂っているのは誰だ? そうだ、狂っているのは――あんな悪魔あくまなど、わたしの息子であるものか!」

 お父様はまだ笑い転げている。尋常じんじょうでないその様子に、先生は慄然りつぜんとして言葉をうしなっている。

 僕は、一歩いっぽみ出した。

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