第6話

 翌日の午後、僕はバルコニーで本を読んでいた。穏やかな天気で、やわらかな風がとても心地ここちいい。僕は安楽椅子あんらくいすにもたれながら、いつの間にか眠り込んでしまった。

「――そんなわけで、結局20ドルも損してしまったんですよ」

「まあまあ、それは大変なことでございましたねえ」

 気が付くと僕のすぐそばで、尾崎おざき先生と婆やが声をひそめて談笑だんしょうしていた。


「それにしても、優真ゆうま君はよく眠ってるなあ」

「お疲れなんでしょう。夏休みでも、毎日遅くまでお勉強をなすってますからねえ」

「厳しい父親を持つと大変ですね。わたしの子ども時代なんて、宿題もせず真っ黒になってはしゃぎ回ってましたよ」

 僕はいつ目を覚ましたものか、ちょっと戸惑とまどった。

「婆やさんは、先代がまだお若い頃から、こちらで働いておられたのですよね」

「ええ。わたくしがこちらへ御奉公ごほうこうに参りましたのはとお時分じぶんでございますが、当時優次郎ゆうじろう様はやっと二十歳はたちでいらっしゃいました。以来六十余ろくじゅうよ年に渡って、御仕おつかえして参りました」

優次郎ゆうじろうおうほどの強悍きょうかんな人物に長年つかえるのは、相当大変だったでしょう」

「いいえ。優次郎ゆうじろう様は厳しい御方おかたではございましたが、さればこそ現在に至る御家おいえ繁栄はんえいがあるのでございます」

「確かにそうですね。皆さんがおっしゃるには、泰三たいぞう氏は先代をさらに上回るほどの大人物だいじんぶつらしいですが、先代をよくご存じの婆やさんも、同じお考えですか?」

「……失礼ながら泰三たいぞう様は、少々御気おきが弱くていらっしゃるように存じます。けれども御先代ごせんだい様と引別ひきべつなさるのはこくではございませんか。優次郎ゆうじろう様はあまりに偉大な御方おかたでございましたから」

 先生のき出す声が聞こえた。

「やれやれ、婆やさんに掛かっては形無かたなしですね。世界広しと言えども、みなとグループのトップに君臨くんりんする方を『気弱きよわ』呼ばわり出来るのは、婆やさんだけですよ。わたしなど、泰三たいぞう氏の鋭い目ににらまれるだけで心臓が止まりそうになります。そういえば先代の肖像画も、目にとても特徴がありますね。画家の演出でしょうが、金色きんいろに光っている様子なんて本当に迫力満点です」

「演出ではございません。事実、優次郎ゆうじろう様の双眸そうぼうは、時折ときおりあんな様子に見えることがあったのです。それは恐ろしい眼差まなざしで、誰もが震え上がらずにはおれませんでした」

「へええ、それはすごい。想像しただけでも背筋せすじが寒くなるようです。しかし聞けば聞くほど、優真ゆうま君は先代には似ていませんね。ほわっとした穏やかな様子などは、むしろお母さんによく似ている」

「――今はあのような御様子ごようすですけれど、昔は美和みわ様もそれは利発りはつ御嬢様おじょうさまでいらしたのですよ。ただ、いろいろなことが重なったものですから……」

「何でも、息子さんを亡くされたとか。優真ゆうま君の双子のお兄さんなんですよね?」

「ええ。優太ゆうた様を失われてから、美和みわ様はすっかりいけなくなって仕舞しまわれたのです。今はもう、わたくしどもはもちろん御身内おみうちのどなたのことも御分おわかりになりません」

 婆やは、小さく溜息をついた。尾崎おざき先生は同情を示すように少し間を置いてから、明るい口調で言った。

「いやあそれにしても、ここから見る風景は格別ですね。この辺りの山々は全て湊家みなとけ地所じしょなのでしょう? 湊帝国みなとていこく磐石ばんじゃくですね。しかしこれだけのものを維持管理していくのは、大層たいそう骨が折れそうだ」

「血は争えぬものと申します。御当主ごとうしゅ様ならば、必ずや更なる御繁栄ごはんえいもたらしなさることでしょう」

 婆やはつつましやかにそう言うと、料理方りょうりかたへ指示を出すために立ち去った。


 僕は身体からだを起こして、大きく伸びをした。

「おや、お目覚めかな」

「すみません、ついうとうとしてしまって……」

「無理もない。ここは夏でも涼しいし、このバルコニーは昼寝にぴったりだもんな。そのうえ『近代哲学きんだいてつがく自壊じかい再生さいせい』なんてものを読めば、俺なら2秒で眠れる」

 先生は、僕をじっと見た。

「僕の顔に何かついてますか?」

「ああ、いやごめん。昨日話した人の中に、君が優次郎ゆうじろうおうに似ていると言った人がいるんだ。でもこうしてじっくり見ても、やっぱり君はあまり似てないと思うよ。まず、その目が全然違う。優次郎ゆうじろうおう泰三たいぞう氏も、君みたいに大きくてんだ目はしていない」

「そうでしょうか」

「うん。君はとても良い子だけど、やがてはこの大帝国をたったひとりで背負わなければならないんだと思うと、気の毒にも思うよ」

「――正直言って、僕も自信はありません。でも、お母様はこれ以上子どもを授かることは出来ないから、僕がやるしかないんです……時々、兄がここにいてくれたらなと思うこともあります――今更いまさらですけど」


 僕は立ち上がって、庭を見下ろした。薔薇ばらえんの向こうを、〝あれ〟がけて行くのが目に入った。僕はぎゅっと唇をめ、その姿があずまの影に消えるのを見届みとどけた。

 気が付くと、いつの間にか先生がとなりに立っていた。先生は口を半分開いたまま、庭を凝視ぎょうししている。その右手は、あごの下で止まったままだ。

「先生? どうかなさったんですか」

 僕が問い掛けても、全く反応しない。

「先生!」

 腕に手を置いて揺さぶると、先生はようやく我に返って僕を見た。

「いったい、どうなさったんです?」

「え、ああ――ごめん」

 先生は当惑とうわくした表情で、ひたいに手を当てている。

「――ねえ優真ゆうま君、きみのお兄さん、ええと優太ゆうた君だっけ? 彼はどうして亡くなったの? 病気、それとも事故か何か?」

「それが……実は、よく知らないんです。兄が亡くなったとき、僕はまだ小さかったものですから」

「そう……」

 先生は、何かを深く考えている様子で黙り込んでいる。

「――先生、何を考え込んでいらっしゃるんですか?」

「え……いや、何も考えてないよ」

 先生は安楽椅子あんらくいすに腰掛けて、不自然なほど大きく伸びをした。

「あーあ、何だか眠くなってきちゃった」

「それなら部屋でお昼寝なさってはいかがですか?」

「いやいや、一応ここには仕事で来ているからね。いくら何でも、真昼間まっぴるまから寝転がってるわけにはいかないよ」

「心配ありませんよ。お父様は先ほど所用しょようで外出されましたから。お戻りは、明日の早朝になるそうです」

「え、そうなの? ――じゃあ、今夜ひとばん留守なんだ」

「はい。ですから少なくとも今日中には、お父様から何か指示が出ることはないと思います」

「じゃあ遠慮なく、休ませてもらおうかな。部屋よりもこのバルコニーの方が、寝心地ねごこちが良さそうだ」

 そう言って気持ち良さそうに安楽椅子あんらくいすしずめたので、僕は「おやすみなさい」と言って、その場を後にした。

 フランス窓を閉めながら、僕は不思議に思った。

 どうして先生の手は、あんなにふるえていたんだろう――。


 翌朝、いつもの時刻に目を覚まして新館へ向かうと、その朝に限って渡り廊下の扉が細く開いていた。

 そしてその日から、尾崎先生の姿は忽然こつぜんと消えてしまった。

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