第5話

 翌朝もいつも通りに、前庭まえにわへ散歩に出た。もやもなく澄み渡った夏らしい天気で、木陰こかげでゆっくり過ごすにはぴったりの朝だ。僕は梔子くちなしの小道を抜けて、西の奥にある薔薇園ばらえんへ向かった。

 入り口にある、つる薔薇ばらわせたアーチを抜けると、そこは色とりどりの薔薇ばらが今を盛りと咲き誇り、甘い香りが漂う楽園。僕は広い庭の中でも、ここが一番好きだった。僕がまだうんと小さかった頃には、ここでお母様と何時間も一緒に過ごした。

 幾重いくえにも重なったかんばしいオールドローズ、艶々つやつやとした花弁のイングリッシュローズ、華やかで色彩あふれるモダンローズ。僕はひとつひとつをじっくりと眺めながら歩いた。やがて本を読むためにベンチのひとつへ座ろうとしたとき、茂みのかべうずくまるものを見つけて、はっと息を呑んだ。


 向こうは一瞬遅れて僕に気付き、素早く立ち上がった。不快な臭気しゅうきが鼻を突く。ほんの3メートルの距離で、〝あれ〟と僕が対峙たいじする。〝あれ〟はくぼんだ目をぎょろぎょろと動かして、僕を見ている。明るい太陽に照らされたその姿は、食堂の薄明かりで見るよりもずっとみにくく、おぞましい。

 よく見ると〝あれ〟の唇に、血がにじんでいる。握り締めた両手の隙間すきまから、むしり取った薔薇ばらのぞいていた。お母様がいちばんお好きだったブルームーンだ。香り高く優美な花も〝あれ〟にとってはただの食料でしかないらしい。僕は両手を握り締めて、〝あれ〟に歩み寄った。


 そのとき、突然嬌声きょうせいが響いて沈黙が破られた。

「まあ嫌だわ、そんなことおっしゃって! 尾崎おざき様ったら」

「いやいや、本当に君のような若くて可愛かわいらしい人が、こんなところにいるとは思わなかったよ」

 アーチの向こうから、先生と若いメイドが楽しげに語り合いながら歩いてくる。その一瞬をとらえ、〝あれ〟は素早くハイブリッド・ティーの茂みの中に消えた。

 僕はベンチへくずちた。2人の声が、段々と近付いてくる。

「ここにはどのくらい勤めているの?」

「まだほんの1年です。たまたまひとつ空きが出来て、やとっていただけたんです。本に傷を付けたとおっしゃって、御当主ごとうしゅ様が前のメイドを解雇かいこなさったので」

「いやはや本1冊で解雇とは、ちょっと厳格げんかく過ぎやしないかな」

御身内おみうちに対してでさえ、あんなことがお出来になる方ですもの。使用人の首なんて、簡単に飛ばしておしまいになりますよ。ですからわたくしはいつも、御当主ごとうしゅ様のお世話に十分過ぎるほど気を配っているんです。本のほこりはらうときにも、赤ん坊をでるようにゆっくり、優しくあつかっていますわ」

「確かに身内に対しても、度を越すほど冷酷な方のようだね。やれやれ、段々怖くなってきたよ。泰三たいぞう氏は僕を呼び寄せて、一体何をさせようってつもりなんだろうなあ――君は何か聞いてない?」

「さあ……わたくしが直接お話をすることはほとんどございませんので、残念ながら見当もつきません」

「ううーん、僕は無事この屋敷から帰してもらえるだろうか」

 先生が肩をすくめて大袈裟おおげさ身震みぶるいいすると、メイドは声を立てて笑った。

「まあ、いくらなんでも取ってわれることはありませんわ。わたくしの経験から申し上げれば、この御屋敷おやしきで平穏に過ごすには、とにかく御当主ごとうしゅ様に逆らわないこと。これがいちばんです」

「なるほどね。きもめいじておくよ」


 メイドが立ち去ってから、ようやく先生は僕に気が付いた。そして言い訳のように「どうも、この家には口の軽い人が多いな」と笑いながら、僕のひざにあった本を取り上げた。

「イェイツか。ここにぴったりだ」

 僕と先生は並んで歩き始めた。朝の風がほほに心地よい。でも、甘い香りの中にほんのわずか混じる腐臭ふしゅうが、僕の心を騒がせた。

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