第3話

 次の朝、僕は5時半に目を覚ました。身支度みじたくを整えてから、新館を通って玄関に出る。新館には広い前庭まえにわがあり、朝早くここを散歩するのが僕の日課になっているのだ。

 庭には朝靄あさもやが立ち込めている。僕は湿った空気を存分ぞんぶんに吸い込みながら、庭の東側をゆっくりと歩いた。しばらく行くと、イチイの向こうから人の話し声が聞こえてきた。

「……そんなに切ったら、枯れちゃいませんか?」

「あんた馬鹿言っちゃいかんですよ。こう見えて、花芽はなめの出る枝はちゃあんと残しとるんです。今年咲いた枝だけこうして切っておけば、来年またおんなし高さに伸びて、綺麗きれいな花が咲くんです」

「へえー。それにしても、これだけの庭を一人で世話するのは大変でしょうね」

「なあに、植物は手を掛けりゃ掛けるほど、それにこたえて綺麗きれいに育ってくれるんだから、まったくかわいいもんですよ。どんなに大事に育てても、ひん曲がっちまうような人間に比べりゃね」

「なるほどねえ」

 声の主は、尾崎おざき先生だ。どうやら庭師と世間話をしているらしい。僕はイチイの陰から、そっと覗いてみた。ラフなシャツ1枚の先生は、庭師と一緒にしゃがみ込んで、紫陽花あじさいの枝を熱心に眺めている。


岡野おかのさんは、ここに来て長いんですか」

「もう40年になりますなあ。わしの家は代々この庭をお世話する役をになっとります。先代の優次郎ゆうじろう様は、わしの作る薔薇ばらを特に気に入って下すったもんです」

「あの厳格そうな優次郎ゆうじろうおう薔薇ばらでておられたとは、少し意外な気もしますね」

 庭師は、じろりと先生をにらみつけた。

「そらね、あの方を悪く言うやからもたくさんおります。暴君ぼうくんだの独裁者どくさいしゃだの、冷酷無比れいこくむひだのね。でもわしに言わせりゃ、一国一城いっこくいちじょうあるじたるものはそうでなきゃ務まらん。あの方は自分の代で、事業を200倍も大きくしちまったんですよ。そらあ並大抵なみたいていのこっちゃないですよ、あんた。あの方以外の誰に、そんな真似まね出来るもんかね」

「確かに先代は、今でも語り継がれているほどの大実業家ですもんね。いやあ、爪のあかでもせんじて飲みたいくらいです。どうやら現在の御当主ごとうしゅも、優次郎ゆうじろうおうに負けず劣らず厳しい方のようですね」

 庭師は立ち上がって、堆肥たいひをリアカーに積み上げた。先生も一緒になって、片付けを手伝っている。

「確かに、現当主げんとうしゅ様も大層たいそう厳格げんかくな方ですわ。なにより、優次郎ゆうじろう様に驚くほどよく似ておられる……ある意味、優次郎ゆうじろう様以上とも言えるかもしれんです。もし優次郎ゆうじろう様を超えるお人があるとしたら、それは現在の御当主ごとうしゅ様以外にありえんでしょう。わしいまだかつてあの方ほどかしこく、また冷酷れいこくなお方を見たことがない」

「よくわかりますよ。私なんか、あの方と向かい合うだけで、気立けだってしまいます」

 先生は、陽気な笑い声を立てた。

泰三たいぞう氏も、この庭がお好きなんですか?」

「さあなあ……泰三たいぞう様のお考えは、わしにはようわからんです」

 庭師はそう言うと、リアカーを引いて去った。僕は少し時間を置いてから、先生に声を掛けた。


「おはようございます、尾崎おざき先生」

「おや、おはよう。ずいぶん早起きだね」

 先生は笑って、僕の胸を指差した。

「また本を抱えてるの? 『中世西洋建築における秘密のアーキテクチャ』――今度は建築学か。君は向学心こうがくしん旺盛おうせいだな」

「この先にある壁の装飾そうしょくが、この本に出てくるものとそっくりなんです。だから比べてみようと思って。ところで先生、昨夜はよくお休みになれましたか?」

「おかげさまでぐっすりさ。あんなに上等なベッドに寝たのは、生まれて初めてだよ。あんまり深く眠ったので、こんなに早く目が覚めてしまったんだ。優真ゆうま君は、いつもこの時間に起きてるのかい?」

「はい。お父様より早く起きて、きちんと身支度みじたくを整えておかないと。それに朝一番に旧館と新館をつなぐ扉の鍵を開けるのは、僕の役目なんです」

「旧館って、御家族の私室があるところだよね。そういえば昨日ここへ到着して早々、泰三たいぞう氏から『旧館には絶対に立ち入らないように!』って、ビシッと言われちゃったよ」

 先生は鼻をきながら、苦笑いした。

「はい、そうなんです。昔から旧館の出入りはとても厳しく制限されているんです。古くは刺客しかくなどを警戒してのことだったらしいですけれど――今も毎晩0時から翌朝6時までは、鍵を掛けておく習慣なんです」

「それじゃ今までに家族以外の人間が旧館に立ち入ったことは、一度もないわけだ」

「あ、いいえ。新道しんどう先生が幾度か。おじい様と新道しんどう先生は、とても親しんでおられたので」

「確かに親密ではあったみたいだね。みなと家のプライベートに関わる法務は全て新道しんどう先生ひとりで処理しているから、俺を含め他の弁護士は誰も知らないんだ――もっとも新道しんどう先生の場合は、親しむのを通り越してほとんど崇拝すうはいに近い感じがするなあ」

「そうなんですか?」

「うん。俺は残念ながら先代にお会いする機会はなかったけれど、おうが話題にのぼる度に、新道しんどう先生はまるで神様の前に立っているかのように、背筋をピンと伸ばしてたたえてるよ。あの姿を見ると、先代がどれだけ大人物だいじんぶつだったか分かるような気がする」

「おじい様は、それは偉大な方でした」

「でも泰三たいぞう氏は、それ以上に冷酷で厳しい方らしいじゃないか。君も苦労するね」

「――いえ」

「ところでさ、俺について、その泰三たいぞう氏から何か聞いてないかな」

「何かって、どういう意味ですか?」

「いやつまりさ、俺をここに呼んだ理由とか、そういったこと」

 僕は首をかしげた。

「さあ――僕はてっきり、新しい顧問弁護士の先生としておまねきしたのだとばかり思っていましたから……新道しんどう先生から何も聞いていらっしゃらないんですか?」

「それが、ただ一週間ほどの旅仕度たびじたくをして、東北にある湊本家みなとほんけを訪ねるようにと命じられただけなんだよ。多分今日にでも泰三たいぞう氏から指示があるだろうけど、何だか落ち着かなくって。だから君にわかればと思ったんだけど」

「すみません、お父様のお考えになることは、僕には……」

「ああ、いいんだよ! 君はまだ子どもなんだから、詳しい業務内容を知らなくても無理ない。変なこといて、悪かったね」


 先生は僕の背中に手を当てて、もと来た道をゆっくりと戻り始めた。いつの間にかもやは晴れていて、温室の硝子がらす屋根に朝日がまぶしく反射している。

 そのとき僕は、30メートルほど先に〝あれ〟が立っているのを見た。半身を夾竹桃きょうちくとうの茂みに隠しながら、鋭い左目でこちらをうかがっている。

「どうしたんだい?」

 急に足を止めた僕を見て、先生は怪訝けげんな顔をした。僕は声をふるわせて叫んだ。

「先生、あれを見て!」

 先生が僕の視線を辿たどる。ひゅっという息をむ音が聞こえた。

「ほら、先生にも見えるでしょう! 僕は昨夜、あれのことを言ったんです。絶対に夢なんかじゃありません!」

 僕は先生の左腕を掴んで、必死で訴えた。先生はしばらく立ちすくんでいたが、やがて大きく息を吐くと、僕に向き直った。

「俺には何も見えないよ」

「そんなの嘘です! あんなにはっきり見えているのに!」

 そう言って指を差すと、〝あれ〟はいつの間にか姿を消していた。

「きっと、寝ぼけてまぼろしを見たんだろう」

「――先生、本当に、本当に、何も見えなかったんですか?」

 先生の目が一瞬らいだような気がする。でもその答えは変わらなかった。

「何度かれても、本当に何にも見えなかったんだよ。それよりさ、あの温室の中には何があるの? 朝食まではまだ時間があるし、良かったら案内を――」

 僕は、先生の言葉をみなまで聞かず、その場から駆け出した。

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