第2話

 食堂を出たその足で、僕は図書室へ向かった。図書室には大きなフランス窓があり、そこからバルコニーへ出られるようになっている。僕は夜風に吹かれながら、闇に沈む周囲の山々を眺めた。この屋敷は高冷地にあるため、7月末とは言え夜はとても涼しい。僕はしばらく頭を冷やしてから、再び図書室に戻った。

 眠る前に読む本を探していると、棚に1冊分の隙間すきまがあることに気が付いた。そういえば、今日の午後に応接室へ本を持って行った記憶がある。きっとそのまま置き忘れてしまったのだろう。

 僕は図書室を出て、応接室に向かった。僕がいるこの新館は、玄関ホールを中心にして、左右に翼を広げたような構造になっている。食堂は1階右翼にあり、図書室は2階右翼にある。そして目指す応接間は1階左翼に位置している。

 僕は薄暗い廊下をまっすぐ進み、玄関ホールに出た。ここには1階と2階をつなぐ大階段があり、その一番上の壁には、300号はある特大の肖像画が飾られている。

 『第十二代当主 みなと優次郎ゆうじろう』――5年前に亡くなった、僕のおじい様だ。この肖像画はちょうど正面玄関と対峙たいじしている。まぶたかるように伸びたまゆ、厳しいあご、その爛々らんらんと輝き相手を射抜くような両眼が、今も変わらず訪れる人たちをおそれさせる。

 僕は幼いころからずっと、おじい様が大好きだった。


 そのまま5分ほど肖像画を見上げてから、僕はようやく1階左翼の廊下を進んだ。そして目的のドアを大きく開いた。

「――から、何を見たとして……」

 革張りのソファに座ったお父様と尾崎おざき先生が、同時にこちらへ振り向いた。2人は顔を突き合わせて、何か話し合っていたようだ。

優真ゆうま、なぜノックをしない! 礼儀知らずにも程があるぞ」

 僕は慌てて頭を下げた。

「ごめんなさい、お父様! あの、決してお邪魔をするつもりじゃなかったんです。ただ僕、ここに本を忘れてしまって……」

「言い訳はいい! どうやらお前のしつけは、全く行き届いていないようだ。今すぐここに滝田たきたを呼びなさい」

「いいえ、ばあやのせいではありません! 僕が悪いんです。お父様、どうかばあやを叱らないで」

「ならば、私を怒らせるようなことをするな!」

「はい、二度としません!」

 お父様は、強い力で僕のあごを引き寄せた。煙草たばこにおいが鼻にかかる。

「いったい何度そうちかったら、まともな振る舞いが出来るようになるんだ? 客人の前で私に恥をかかせるな」

 強く突き飛ばされ、僕は壁に手をついた。お父様は足を踏み鳴らし、横を通り過ぎて行く。尾崎おざき先生は慌てて立ち上がり、お父様の背中へ向かって深く頭を下げた。

 やがてドアが閉まり、応接室がしんと静まり返ると、先生は僕を見てにっこりと微笑んだ。

「本っていうのは、これのことかな。テーブルの上にあったけど」

「あ、はい。ありがとうございます」

「『競争力を高める戦略的コンプライアンス経営』――ずいぶん難しい本を読んでるんだなあ!」

「……正直に言うと、僕にはまだよく分からないんです。でも頑張って勉強しないと、お父様に叱られてしまうので」

「なるほどね。御曹司おんぞうしも楽じゃないなあ」

 先生が手招てまねきをしたので、僕はおずおずと向かいに腰を下ろした。

優真ゆうま君、だったよね。年はいくつ?」

「12になります」

「へえ、俺が12歳の頃なんて、夏休みは毎日朝から晩まで遊び回ってたよ。君は偉いなあ!」

 僕は膝の上に置いた両手を、ねじり合わせた。

「そんな、僕なんて……いつもお父様の邪魔をして、叱られてばかりです」

泰三たいぞう氏――君のお父さんは、ちょっと厳し過ぎるんじゃないかな? あの人ににらまれると、俺でも泣きそうな気持ちになるよ。あ、これは内緒な」

 僕はくすくすと笑った。

尾崎おざき先生は、新道しんどう先生の法律事務所で働いていらっしゃるんでしょう? とっても優秀な弁護士さんだと伺っています。やがては新道しんどう先生のあといで、湊家みなとけ専任の顧問弁護士になって下さるのですよね」

「えっ! ――いやあ、それはどうかなあ。俺はやっと3年目のぺいぺいだからね。まだまだ跡を継ぐなんてレベルじゃないよ」

尾崎おざき先生は、おいくつなんですか」

「あと2週間で30になるよ」

「それならきっと大丈夫ですよ。新道しんどう先生がおじい様の専任弁護士になられたのは、32歳の頃ですから」

新道しんどう先生は、その頃すでに相当のキャリアを持っていたからね。まだ始めたばかりの俺とは、とても比較にならないよ」

尾崎おざき先生は、大学を出てすぐに弁護士になられたのではないんですか?」

「ああ――うん。大学卒業後しばらくは、違う仕事をしてたんだ」

「そうなんですか。きっと興味深いお仕事だったんでしょうね」

「いやあ、普通のサラリーマンだよ――おっと、もうこんな時間か。お互いそろそろ寝た方がいいな」

 僕たちは、連れ立って応接室を出た。先生の客間は、2階の左翼にある。一方僕の寝室は旧館にあるので、1階右端にある渡り廊下を通る必要がある。旧館は新館の裏手にあるが、周囲が高い塀で完全に閉鎖されており、この廊下を通る以外の方法では入れないようになっている。

「――しかし何度見ても、この肖像画には圧倒されるな。この方が、先代の優次郎ゆうじろうおうなんだろう?」

「はい、そうです」

「噂ではとても非情な方だったらしいね。こうして眼光がんこうするど見下みおろされると、絵だとは分かっていてもすくみ上がってしまうよ」

「おじい様のご遺言ゆいごんで、この絵ははずしてはならないことになっているんです。僕たちにとっては、神様がみさまのような方でしたから」

「――なるほど、死してなおほろびずか」

 先生は思案顔で、肖像画を見上げている。僕はその横顔を見つめながら、ずっとたずねたいと思っていたことを思い切って口に出した。

「……先生」

「ん?」

「さっき、あの……食堂でおっしゃったこと、本当ですか?」

 先生は一瞬固まり、ひと呼吸置いてからゆっくりとこちらを向いた。その声はとても冷静だ。

「さて、どの話かな?」

「あの化物ばけものが、先生にも見えないというお話です」

「ああ、あれか――もちろん本当だよ」

「本当に何もお気付きになりませんでしたか? けもののような酷いにおいにも?」

「何も見えなかったし、何も臭わなかったよ」

 先生はきっぱりと言った。

「――やっぱり、僕にしか見えないのか……」

 僕ががっくりとうな垂れると、先生は僕の肩に優しく手を置いた。

「きっと、夢でも見たんだよ。あまり気にしないことさ」

 先生はそう言い残して、足早に階段を上って行く。そして一度も振り返ることなく、左の廊下へ消えた。

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