第2話
食堂を出たその足で、僕は図書室へ向かった。図書室には大きなフランス窓があり、そこからバルコニーへ出られるようになっている。僕は夜風に吹かれながら、闇に沈む周囲の山々を眺めた。この屋敷は高冷地にあるため、7月末とは言え夜はとても涼しい。僕はしばらく頭を冷やしてから、再び図書室に戻った。
眠る前に読む本を探していると、棚に1冊分の
僕は図書室を出て、応接室に向かった。僕がいるこの新館は、玄関ホールを中心にして、左右に翼を広げたような構造になっている。食堂は1階右翼にあり、図書室は2階右翼にある。そして目指す応接間は1階左翼に位置している。
僕は薄暗い廊下をまっすぐ進み、玄関ホールに出た。ここには1階と2階を
『第十二代当主
僕は幼いころからずっと、おじい様が大好きだった。
そのまま5分ほど肖像画を見上げてから、僕はようやく1階左翼の廊下を進んだ。そして目的のドアを大きく開いた。
「――から、何を見たとして……」
革張りのソファに座ったお父様と
「
僕は慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい、お父様! あの、決してお邪魔をするつもりじゃなかったんです。ただ僕、ここに本を忘れてしまって……」
「言い訳はいい! どうやらお前のしつけは、全く行き届いていないようだ。今すぐここに
「いいえ、
「ならば、私を怒らせるようなことをするな!」
「はい、二度としません!」
お父様は、強い力で僕の
「いったい何度そう
強く突き飛ばされ、僕は壁に手をついた。お父様は足を踏み鳴らし、横を通り過ぎて行く。
やがてドアが閉まり、応接室がしんと静まり返ると、先生は僕を見てにっこりと微笑んだ。
「本っていうのは、これのことかな。テーブルの上にあったけど」
「あ、はい。ありがとうございます」
「『競争力を高める戦略的コンプライアンス経営』――ずいぶん難しい本を読んでるんだなあ!」
「……正直に言うと、僕にはまだよく分からないんです。でも頑張って勉強しないと、お父様に叱られてしまうので」
「なるほどね。
先生が
「
「12になります」
「へえ、俺が12歳の頃なんて、夏休みは毎日朝から晩まで遊び回ってたよ。君は偉いなあ!」
僕は膝の上に置いた両手を、
「そんな、僕なんて……いつもお父様の邪魔をして、叱られてばかりです」
「
僕はくすくすと笑った。
「
「えっ! ――いやあ、それはどうかなあ。俺はやっと3年目のぺいぺいだからね。まだまだ跡を継ぐなんてレベルじゃないよ」
「
「あと2週間で30になるよ」
「それならきっと大丈夫ですよ。
「
「
「ああ――うん。大学卒業後しばらくは、違う仕事をしてたんだ」
「そうなんですか。きっと興味深いお仕事だったんでしょうね」
「いやあ、普通のサラリーマンだよ――おっと、もうこんな時間か。お互いそろそろ寝た方がいいな」
僕たちは、連れ立って応接室を出た。先生の客間は、2階の左翼にある。一方僕の寝室は旧館にあるので、1階右端にある渡り廊下を通る必要がある。旧館は新館の裏手にあるが、周囲が高い塀で完全に閉鎖されており、この廊下を通る以外の方法では入れないようになっている。
「――しかし何度見ても、この肖像画には圧倒されるな。この方が、先代の
「はい、そうです」
「噂ではとても非情な方だったらしいね。こうして
「おじい様のご
「――なるほど、死してなお
先生は思案顔で、肖像画を見上げている。僕はその横顔を見つめながら、ずっと
「……先生」
「ん?」
「さっき、あの……食堂で
先生は一瞬固まり、ひと呼吸置いてからゆっくりとこちらを向いた。その声はとても冷静だ。
「さて、どの話かな?」
「あの
「ああ、あれか――もちろん本当だよ」
「本当に何もお気付きになりませんでしたか?
「何も見えなかったし、何も臭わなかったよ」
先生はきっぱりと言った。
「――やっぱり、僕にしか見えないのか……」
僕ががっくりとうな垂れると、先生は僕の肩に優しく手を置いた。
「きっと、夢でも見たんだよ。あまり気にしないことさ」
先生はそう言い残して、足早に階段を上って行く。そして一度も振り返ることなく、左の廊下へ消えた。
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