異形

咲月 青(さづき あお)

第1話

 時計の針が、午後8時をきざんだ。

 重々おもおもしいかねが、薄明かりの食堂に鳴り響く。

 細長いテーブルには3本立ての燭台しょくだいが2つ置かれ、炎がナイフの刃先をめるように照らし出している。

 8つ目の鐘が鳴り終えた瞬間、僕の全身がガタガタとふるえ始めた。

 もうすぐ〝あれ〟がやってくる――。


「どうした、優真ゆうま。気分でも悪いのか」

 お父様が、口のはしゆがめて僕を見ている。向かいの席ではお母様が、焦点しょうてんの合わない眼差まなざしでスープをくるくるとき混ぜている。僕は小さく首を振って、急いで肉をひと切れ頬張ほおばった。

 隣からナイフで皿をこする音が響き、続いて慌てたように「失礼」とささやく声が聞こえた。尾崎おざき先生だ。今日の午後この屋敷を初めて訪れた先生は、慣れないテーブルマナーに悪戦苦闘しているようだった。見ると、ひざのナプキンが今にもすべり落ちそうになっている。僕はお父様に気付かれないように、どうやって先生に教えようかと考えていた。

 けれど次の瞬間、突然蝋燭ろうそくの炎が大きくらめき、僕の思考を吹き飛ばした。右手から、臭気しゅうきを含んだ風が流れ込んでくる。僕はすぐさま、右側の扉を見つめる。まさにいま廊下に面した扉が細く開かれ、そこからおぞましい姿が現れつつあった。


 ――その異様いような姿は、何度見ても慣れることはない。

 黄ばんだ頭には無数のこぶが突き出し、そこからつやのないまばらな白髪はくはつが長く伸びている。かさぶただらけの顔は骸骨がいこつのようにえぐれていて、その両目だけが蝋燭ろうそくあかりを受けてギラギラと光っていた。

 身長1メートル程度の身体からだまとっているのは、ひざまで隠れる薄汚れたシャツ1枚。元は白かっただろうそれから伸びる手足は、小枝のように細くしなびているのに、その腹だけが大きくふくれ上がり、布地を押し上げている。全体的には、絵本に出てくる山姥やまんばか、餓鬼がきそのものに見えた。

 本当に、なんてみにくく、浅ましい姿だろう――どうしても視線をらすことが出来ない。僕はナイフを置くことも忘れ、その醜悪しゅうあくな生き物の動きを目で追う。

 〝あれ〟は音もなくテーブルに近付き、骨ばった右手でお母様の皿から海老をかすめ取った。間を置かずに、付け合わせのジャガイモやアスパラガスのソテーを、あっという間に平らげる。続いてお父様の皿からチーズを盗み取った。アルミ包装ごと千切ちぎるので、僕の口の中にまでぞっとするような酸味さんみが広がる。

 僕は周囲に視線を走らせた。この異様な光景に、僕以外は誰ひとりとして反応していない。〝あれ〟を見ることも、〝あれ〟におびえることもしない。この中で僕だけが、身体からだ強張こわばらせ、両腕を粟立あわだたせている。


「これは良いトカイだ。特に香りが素晴らしい」

 お父様はワイングラスをかたむけ、満足そうにうなずく。僕には〝あれ〟の臭気しゅうきしか感じ取れない。

「どうです、尾崎おざき先生。我が家秘蔵ひぞう貴腐きふワインは」

 先生は答えようとして、少しき込んだ。

「……失礼しました。そうですね、こんなに甘く濃厚なワインは初めて味わいました」

 先生は貴腐きふワインの香りにむせたのだろうか――ひょっとしたら、〝あれ〟の臭気しゅうきに反応したのかもしれない。僕は期待を込めて先生の横顔をじっと見詰みつめた。けれど先生は黙々と食事を続けるだけだった。

 お母様は相変わらずぼうっとした表情で、皿の上いっぱいにパンを千切ちぎっている。その目には〝あれ〟どころか、僕の姿さえうつっていない。

「なんだ優真ゆうま、先程から落ち着きがないな。何か気になることでもあるのか?」

 そう問い掛けるお父様の目には、言葉以上の何かがあふれている。

「あ、あの……お父様――」

「まさかまた『ここに化物ばけものがいる』などと言うんじゃあるまいな」

 先手せんてを打たれて、僕は言葉にまった。

「いい加減に、嘘をつくのはめたらどうなんだ」

「嘘じゃありません! 僕、僕には本当に見えるんです!」

 こうしている間にも、後ろでくちゃくちゃと咀嚼そしゃくする音が聞こえる。これがどうして嘘なものか。

「まだりないのか。じゃあひとつ試してやろう――尾崎おざき先生」

「あ、はい。何でしょうか」

「ここにいる私の息子がね、この部屋には毎晩化物ばけものが出るのだと言い張るんだよ。小さな子ども程の大きさで、薄汚うすよごれて腹の大きくふくらんだ、絵巻物えまきものに出てくる亡者もうじゃのような姿をしているそうだ。そこで先生におたずねするが」

「はあ」

「夕食が始まってからたった一度でも、ここで何か異常なものを見たり聞いたりしたならば、正直に言って欲しい」

 僕は息をひそめて、先生の答えを待った。先生は僕をちらりと見たけれど、すぐに目をらした。

「――いいえ、私は何も見ていません」

「本当だな?」

「はい」

 お父様は満足げにうなずくと、僕に視線を移した。

「聞いた通りだ、優真ゆうま。わかったらもう二度と、馬鹿な話はするな」

 僕がなお食い下がろうとしたとき、いきなり背後から薄汚れた腕がにゅっと伸びてきた。僕は悲鳴を上げ、ナイフを取り落としてしまった。

「馬鹿者! 一体何をやっているのだ。優真ゆうま、もういいから出て行きなさい。今夜は食事抜きだ」

「……はい。申し訳ありませんでした」

 僕が席を立つと、〝あれ〟は僕の皿に半分以上残っていたヒレ肉にらいついた。皿に鼻を突っ込んで食い散らかしている異様な姿にも、皆いっさい反応しない。


 僕はあきらめて、小さく息をいた。そして廊下に出て扉を閉める瞬間、お父様の表情が目にまった。

 お父様はひどく満足そうに、わらっていた――。

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