第37話
◆ ◆ ◆
「カスティ!? カスティ!! どうして……!」
目の前で形が無くなったカスティに、エゼキエルは体の痛みも忘れて、水中に流れた砂を腕で掻き寄せた。同じくベリカが泉に入ってくるが、砂はあっと言う間に水底へ沈んでしまう。
「ど、どうしたら、っ、つ、壺!? 壺に入れたら良いんじゃない!? 待っ、王子さま、待ってて! す、す、すぐ壺を持って」
「何やってんだ馬鹿」
慌ててベリカが戻ろうとすると、泉の淵から声が聞こえ、エゼキエルとベリカが振り返った。
そこには大きく黒い影に包まれたシェハが、呆れた顔で立っている。影は形を変え、三日月の形をした口で笑うと、シェハと共に泉へ入ってきた。
「し、シェハ……! 貴方、体は」
「心配するな。それより、馬鹿なことやっていないで、お前らは離れてろ。カスティの心臓はオレが持っているのを忘れたのか。こいつはすぐに術で回復できる」
心底辟易したシェハの声に、エゼキエルとベリカは小さく声を上げて、顔を見合わせた。シェハの言う通りだ。術者である彼がいれば、カスティは再び体を形成できる。目を開けた次の瞬間にカスティが崩れ、すっかり気が動転してしまっていた。
ほっと胸を撫でおろし、ベリカに支えられながらエゼキエルは立ち上がる。心配そうに様子を窺っているジマに目を瞬かせ、足を踏みだした刹那、シェハがエゼキエルに視線を向けた。
「……アンタ、これからもカスティと一緒にいる気はあるか?」
「え?」
目を瞬かせ立ち止まれば、少年の真摯な瞳と双眸が交差する。
「もちろんだ、シェハ。君もだろう」
すぐに頷いて、シェハが安心するように笑うエゼキエルに、彼は小さく口角を緩ませた。それは初めてエゼキエルに向けられた邪気の無い安堵の表情で、ざわりと胸に風が吹き抜ける。喜ばしいことのはずなのに、何故か不安が頭を過った。
「……シェハ?」
「……カスティはアンタに会えて、変わった。オレの知らないことまで、全部。……ありがとう、エゼキエル王子。この旅を、オレはずっと忘れない」
次にエゼキエルが口を開く前に、シェハを包んでいた影が解き放たれる。影はいっそ平伏しそうなほど美しい女神に変わり、細い腕でシェハを抱きしめ、指先で頬を撫でた。
そしてそれを合図に、空気を震わせながら、光の粒と囁きがシェハの隣に集まっていく。
生物とは違う、畏怖を与える別の何かが形を成して、足元から姿を現した。
「……なぜ……貴方がたが……」
呟いた声はそれ以上音にならず、エゼキエルは立ち尽くしたまま瞠目する。
ソレは両目にかかる前髪を指先ですき、微かに口角を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
風の音がする。
カスティはゆっくりと目蓋を開けて、辺りを見渡した。夕焼け雲の下、背の低い草花が足元で穏やかに揺れている。鼻腔には微かに懐かしい香りが漂い、目を瞬かせた。
ここは何処だろうか。遠くで人々の笑い声がする。視線を向けるとシェハの後ろ姿が見え、表情を緩ませて近寄った。
「シェハ、こんなところでどうしたの。さあ、行きましょう。王子とベリカさんが待ってるわ」
振り返ったシェハが、カスティと同じく穏やかに笑う。そこで初めて、彼が正面から見ていた物に気が付いた。
それは石で出来た円柱状のもので、たくさんの薄紅色の花が飾られている。これは墓標だ。そう悟った刹那、シェハが口を開いた。
「……オレは行けないんだ」
墓標には、文字が刻まれている。冥界に誘われた年月と、名前。風化せず鮮明に刻まれているのに、なぜかカスティの位置からは読み取れなかった。
「ずっと、幸せだった」
シェハの声が、一言ずつ幼くなっていく。いつの間にか目に前には、カスティをゴーレムとして召喚したばかりの、懐かしい我が子の姿があった。土に膝をついて目線を近づけると、彼はあの頃と同じ無邪気な笑みで両手を前に差し出す。小さな手の平には、一輪の花があった。墓標に添えられた美しい花と同じ物が握られていた。
言葉もなく受け取ったカスティに、シェハは再び笑って首を傾ける。
「ひとりぼっちをたすけてくれたよな、……ずっとわすれない」
鉛色の髪に、強い魔力が血液を巡るせいで、僅かに色の悪い顔。ハッとさせられる、燃えるような朝焼けの瞳。
母も知らず、父も知らず、孤児として育った彼と共に旅をしてきた。心臓だけのミイラにゴーレムとしての体を与え、再び世界に連れ出した術者に、自分が思う以上の愛情を注いできた。
家族が欲しい故に術式を習得し、力をつけた彼の。初めて目を開けた瞬間、我が子が見せた輝かんばかりの笑顔を。溢れんばかりの安堵を。きっとこの先、一生忘れることはない。
「たくさん、見てきたこと。聞いてきたこと。ずっとわすれない」
大きくなったと、思う。たかが数年だ。前世の記憶もあり、ミイラとして存在した年月を考えれば、瞬きほどの数年間。けれども誰よりも傍で成長を見つめてきた。この先もそうであることを、誰よりも願ってきた。
「……カスティ、オレは幸せだった。世界のだれよりも幸せだった。……ずっとわすれない」
シェハの声が砂に零れるように、少しずつ音を失っていく。幼い面影は成長し、カスティが知るよりも大人びていく。薄紅が揺れる。風の音がする。笑顔を見せる彼の瞳に涙は無い。それでもこの胸を、一つの感情が込み上げてくる。
「……また、会いたい。……ありがとう……」
声が途切れる。姿が砂の中に消えていく。伸ばした腕は光に包まれる。
どうか幸せにと、彼はいつまでも笑っていた。
「……カスティ……!」
呼びかけと共に優しく頬を撫でられ、意識が浮上する。目蓋を開けると、心配そうにこちらを見下ろすエゼキエルの顔があり、次いで強く抱きしめられた。暖かな腕に思わず息が零れて、カスティは片腕で抱きしめ返しながら、眉尻を下げる。
「王子……ご無事で……」
「よかった……よかった……!貴女のおかげだカスティ、……本当によかった……」
エゼキエルの存在を確かめたくて、手の平で頬を撫でると、ぴりぴりと肌が温かく痺れる。目を丸くして片手を眼前に掲げれば、涙だ、と認識するが、砂は流れることなく浸み込んでいった。
辺りを見渡すと、すぐ傍でベリカが両手を胸に当ててカスティに笑いかけるが、表情を歪めて俯いた。
ざわりと胸が痛む。片手を押し当てると、久しく聞いていなかった音がする。鼓動の音だ。強く脈打ち魔力を溢れさせている。エゼキエルもベリカも目元が腫れて赤らんでいる。
「……シェハは……どこ……?」
エゼキエルに支えられながら上体を起こしたカスティは、視線を彷徨わせながら呟いた。視界の端に泉が見える。ここはまだ森の中だ。しかしカスティはジマに支えられることなく、形を保っている。
シェハはどこだ。一度崩れた体を戻す為には、彼の術が必要だ。なぜ自分の体から鼓動の音が聞こえるのだろう。シェハはどこだ。彼の心臓が回復したのだろうか。
シェハは、どこに。
「おれが説明しようか、カスティ」
土を踏む音に振り返ると、予期せぬ存在がこちらを見下ろしていた。後ろにはジマが追従し、隣には深淵の女神が浮遊している。
「……創造主さま……」
人の形をしながら、色のない造形に、閉じた目蓋には表情を伺わせない幾何学模様。眉間の皺を微かに寄せて、ソレは口角を上げた。
なぜここに、という疑問は言葉にならず、呼吸だけが零れて目を見開く。
「シェハは、ここに」
片手で妻である女神を示した。目を向けると、半透明な体の中に小さな光の粒が見える。木々の間から差し込む太陽に照らされ、鮮やかな金色に輝いていた。
鼓動の音が大きくなる。焦燥感が降り積もっていく。問いかけたいのに唇は動かず、震えだけを伝え、思わず自身を支えるエゼキエルの腕を掴んだ。すぐに強く抱きしめられて、ひくりと喉が鳴る。
「シェハはな、カスティ。もうあの時、心臓は止まってたんだ」
ソレは穏やかな調子で言いながら、地面に片膝をついた。
「その代わりに、お前の心臓を移して、生きながらえていた」
「嘘ですよね」
声から張りが失われていく。創造主は何故、いま、このような冗談を言うのだろう。
そんなはずはない。シェハの心臓はカスティの魔力に支えられて、弱まった力を補填して、そして元気になったら。
「嘘じゃねぇんだ、カスティ。シェハは強い魔力を持っていたが、人間だ。……心臓を二つ同時に動かしていられるような、体じゃない」
「嘘、うそ、そんな、だって、シェハは」
「嘘じゃない。……それがシェハの願いだった」
怪我に倒れ、死の淵に立たされていたシェハは、薄れゆく意識の中で決断をした。カスティに対し、心臓を移せと言ったのは確かに雇い主だ。しかし、それを始めに提示したのはシェハの方だった。
彼はその時、どうしても死ぬわけにはいかなかった。まだもう少し、出来るだけ時間が欲しかった。刻一刻と弱まる心音を聞きながら、シェハは創造主に、どうにかして生きながらえたい。願いを叶えてほしいと懇願したのだ。
今はまだ、カスティを残して逝くことはできない。孤児だったシェハに、家族として傍に居てくれた人だ。巡る季節の中で、たくさんの愛情を受け取った。だからもう少し、傍で見守りたかった。
彼女に世界を、目の前に広がる海原へ連れ出してくれる誰かを、見つけるまで。
「……おれはシェハの願いを叶えただけだ。ただ、お前の雇い主が、シェハの心臓がまだ生きてるかのように説明したのは、予想外だったけどな」
カスティは瞠目したまま呼吸を止める。嘘だと思いたかった。皆、驚かせようとしているのだ。そうに違いない。そう思いたいのに、体へ戻ってきた心臓が、脈打つ心音が、目を逸らすことを許さず急き立てる。
深淵の女神がカスティの前にふわりと浮かぶ。金色に輝く光の粒が、微かに瞬いた。
「……そん……な……」
自分は今まで何を護ってきたのだろう。自身を作り上げた術者を、愛する息子を失い、何をしてきたのだ。ただ我が子を案じ、共に生きてきたのに、何をやってきたのだ。
指先が胸を引っ掻き、強く込めすぎた力がマントを引き裂いて、砂が零れ落ちていく。視野が赤く染まり点滅する。呼吸の仕方がわからない。空洞が砂で埋もれ、吸うも吐くもできない。瞬きの仕方がわからない。乾いた皮膚が張り付いて、開けるも閉じるも忘れてしまう。声の出し方が分からない。出す必要がない。もう呼び声が、聞こえないなら。
苦しい。悲しい。哀しい。痛い。痛い。いたい。
「……カスティ」
エゼキエルの片手が、カスティの手に重なった。グローブをはずし、少し筋張った、暖かな血流を感じる肌が触れ合う。涙で濡れた手の平と、砂で出来た手の甲の間が熱をもった。痺れるような痛みが広がっていく。
「……聞こえるか? 二人で護ってきたものだ」
鼓動の音がする。魔力を力強く全身に巡らせ、髪からつま先まで行き渡る波紋の様に。神経に伝え、信号となり、衝動は目蓋の内側を焦がして溢れてくる。
視界が霞んだ。魔力と共に循環する水が、瞳の奥から流れて輪郭を濡らし、その度に痛みが走る。胸が内側から掻き毟られるような錯覚がした。このまま心臓を止めてしまえと願うような、激しい苦痛が込み上げてくる。
「……貴女の愛が、シェハの意志が、護り通したものだ。……聞こえるだろう、カスティ」
エゼキエルの指が、強く、強く、カスティの手を胸に押し付けた。
傍らで導くその声にぼやける双眸は揺れ、それでも二つ分の鼓動の先にある足音が、聞こえる。
心はここに、あるんだ。
カスティは悲鳴を上げてエゼキエルに抱き着いた。体中の水分が堰を切って溢れてくる。酷い頭痛がした。久方ぶりに蘇った感情は、こんなにも辛いものなのかと、改めて思い知らされる。
泣き叫んで抱擁をせがむ腕を、エゼキエルが強く抱き返した。安堵と、憎悪と、哀愁と、幸福を、この腕の中で撒き散らしていく。
シェハがもういない。見守ってきた我が子にもう会えない。とめどなく溢れる絶望は、熱く慟哭する胸を焼き焦がしていく。最後、夢に見た遺言はまるで呪いのようにも、祝福のようにもカスティを苛める。
この先、息絶えるまで、忘れてはならない事を知らしめるように。
心無い化け物は、ここにある心をずっと探していた。痛くて辛い物だと分かっているのに、愛する子に手を引かれ、暖かな日差しを求めていた。愛する人が放つ矢の先を、ずっと目指して彷徨っていた。
連れて行ってほしい。野山を越えた空の彼方へ。連れて行ってほしい。海原を目指す地平線の向こうへ。
どうか、生きろと我が子が託し、二人で守り抜いたこの心を。
楽園を知るその愛の、一番近い場所へ。
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