第36話


 

◇ ◇ ◇



「エゼ、キエル……おうじ……!!」


 崩れ落ちたエゼキエルの身体を、カスティが抱き留める。しかし、右目を射抜かれた身体の魔力が歪み、腕から砂がこぼれ、受け止めた体重を支えられず、尻もちをついた。

 出血が酷く、呼吸音がおかしい。体温がどんどん奪われていく。青ざめたカスティが呼びかけるが、固く閉ざされた目蓋はぴくりとも痙攣しなかった。少女たちが持ってきた布を裂いて止血を試みるが、じわりと血液が布へ広がっていく。

 膝をついたルキファーが眉を寄せ、エゼキエルの顔を覗き込んだ。指先を顎にあて一呼吸ほど思案し、カスティと同じく青ざめた顔で見下ろすシェハに、視線を向ける。


「……泉に連れて行け」


 ルキファーが口を開く前に、羽ばたきの音が聞こえ、ヘイルムが姿を現した。風の化身は静かな眼でエゼキエルを一瞥し、ルキファーの隣へ寄り添う。


「ヘイルム」

「いずれ朝になる。その前に泉へ連れていけ」

「……ッふざけるなお前、なんのつもりで……!?」


 激昂したシェハがヘイルムの胸倉を掴み上げた。怒りに高ぶる感情に伴い、砂塵が足元を舞い始める。ヘイルムは僅かに眉を寄せて、シェハの頬を両手で包むと、幼子をあやすように優しく撫でた。


「命の道から外れた者は好かん。如何様な理由があれど、生き物は等しく己が命の道を歩むべきだ。……闇夜に消えた獣も同様にな。風で方向を示したにすぎん。どのみち向き合わねばならない運命だ」

「この──ッ」

「だめ! だめよシェハ! 今は王子さまをどうにかするのが先でしょ!?」


 振り上げた拳をベリカが慌てて押さえ込み、彼女は青ざめた顔でエゼキエルを見つめた後、親指の爪を噛んで数秒考え、カスティの前にしゃがみこんだ。


「カスティさん、泉に連れて行くわ。あたしが責任をもって連れていく。だから」

「……て……ます……」


 砂で出来た体をところどころ破損させながら、俯いたまま微動だにしていなかったカスティが、ゆっくりとエゼキエルを抱きしめる腕の力を強くする。


「……わたしが、つれていきます」


 がくがくと震える膝を叱咤し、揺らぐ魔力を再び引き寄せながら、立ち上がろうとマントが床を擦った。シェロールが寄り添い体を支え、眉尻を下げて柔く微笑む。


「わたしが……! つれていく……!」


 身体が鉛のように重いが痛みはない。手遅れになる前に早く彼を連れて行かねばならない。エゼキエルを横抱きにし立ち上がったカスティに、シェハが眉間に寄せた皺を深めて詰め寄った。


「無茶を言うな! 森には入れないと言われたのを忘れたのか!?」

「行くわ」

「どうやって行くつもりだ」

「そこをどいて」

「っそんな崩れそうな身体でどうするんだと聞いてんだ!!」

「絶対に行く」

「ここはベリカに任せろ、オレもどうにかして――」

「いやよッ」


 シェハの言葉を鋭く否定し、カスティは頭を振る。砂が音を立てて空気中へ飛散するが、構ってなどいられなかった。


「わたしが連れていく。絶対に連れていく。王子と約束したの、必ず見届けるって……!」


 腕の中で冷たくなっていく体に、心の底から恐怖する。

 確かにベリカやシェハに任せれば、より安全にエゼキエルを泉へ連れていけるかもしれない。けれどもそれでは駄目なのだ。この目で見て、この指で触れて、この声で呼ばねば意味がない。

 エゼキエルが腕を伸ばし救い上げられた、この身でなければ駄目なのだ。


「行かなければ、きっと……後悔するわ……!」


 血液の巡らない内側から、何かがせり上がってくる感覚がする。それでも地面を踏み、擦る様に前へ進む。今なら、何も出来ない自分に後悔すると言っていた、エゼキエルの意思が分かる。切なくて悔しい、もどかしく振り返る、その衝動と言う心に触れられた気が、するのだ。


『その願い、わたしが叶えるわ』


 カスティの前で声がした瞬間、うっすらと氷の粒を振りまきながら、冬の女神が姿を現した。あの日、別れ際に負っていた傷はすっかりと癒え、美しいサマードレスを翻し、サンタマリアの瞳を輝かせて地表へ降り立つ。小さく声をあげたルキファーが、胸の前で両手を重ね膝を折った。

 足を止め茫然と目を見開いたカスティが、小さく呟き名前を呼ぶ。


「……ジマ様」

「やっと、お礼ができるのね……。崩れるあなたの身体を、わたしが凍らせて支えるわ。……痛みのないあなたにも、苦しいかもしれないけれど、……力になりたいの」


 氷の粒がカスティの足元を取り巻く。安定しない身体に寄り添うような、冷たく、けれども暖かな力に、カスティは表情を泣きそうに歪ませながら頷いた。ジマは薄く微笑んで、ふわりと体を浮き上がらせる。


「……ベリカ、カスティを支えてやってくれ」


 様子を見ていたシェハが、静かな声でベリカに声をかけた。


「そ、それは勿論……だけど、アンタは……?」

「オレも必ず後を追いかける。必ず」

「……わ、わかった、早く来るのよ」


 カスティを見つめたままそう言ったシェハに、ベリカは何度も頷いて、カスティの背に片手を置いて隣に並び立った。

 シェロールは双眸を細め、一度カスティから離れてシェハを抱きしめると、すぐに舞い戻り、カスティの両頬を手の平で包み込む。暖かな炎を見つめ視線を交えれば、悠久にも等しい時を共に過ごしてきた守護者は、心から幸せそうに笑った。


「……よき人に巡りうたな、カスティ」

「……ええ」

「わしは幸せだった。この世の誰よりも、幸せな日々であった」

「……っ……うん……」


 声が震える。涙も出ない視界がそれでも揺らぐ。どうか自分勝手な選択を許してほしい。死を思うだけでは明日を生きられないのなら、せめて抗い生きることを望んだ、この土塊の魂を。

 心臓だけの存在だったカスティを護り、優しく、時に厳しく、力を貸してくれた父のような人だ。離別にはあまりにも早く、運命だと受け入れるには、心の準備も何も出来ていない。

 けれども。

 カスティは死の淵にいるエゼキエルを見下ろし、奥歯を噛み締める。

 この選択が正しかったのだと、胸を張って言える日が、きっと訪れる。それを彼が教えてくれる。今はただ、そう願う。


「さぁ、行くがいい。わしの力はお主の強き願う鍵。わしの最後の力で包み込もうぞ。……幸せになられよ、さよならだ、わしのカスティ。さようなら、わしの王よ」


 叙事詩を謡うその声は、最後、燃える光となって天へ上り、エゼキエルへ降り注ぐ。美しく尾を伸ばす彗星に似た輝きが立ち消え、途端にエゼキエルの体が温まり、弱まっていた脈拍が少しずつ精気を帯びていった。


「今の内だ、走れカスティ!!」


 シェハの声に弾かれ、カスティはベリカとジマと共に、泉があると言う森の方へ走り出す。地面を踏むたびに氷が足裏を刺して、痛みは感じないが確かに苦しさが込み上げてくる。ゴーレムに氷水系はそもそも相性が悪いのだ。しかしそれが何だと、エゼキエルを抱きしめ目を細める。

 森に踏み出す足が、魔力の均衡を保てずに脆く崩れていく。何度もそれに傾きながら、ジマの力と、ベリカと精霊に支えられ、カスティは走る。一本道の向こうへ、山々の頂きから見える東の空が、うっすらと白み始めた。

 朝が来る。鼓動を持たない胸が脈打つ。ベリカが声を上げて、あっちに、と前を指さした。木々が生い茂る中を潜り抜け、辿り着いたそこに、三人は目を見開いて立ち止まった。

 深い青の水面に、琥珀色が滲む泉が眼前に広がる。清浄な空気と高い魔力を感じ、地下から水が湧き出す音が聞こえる。木々の隙間から朝日が差し込んで、揺蕩う水を厳かに照らしていた。


「……なに、これ……すごい……」


 呆然とした表情で呟いたベリカが、大きな瞳から一粒涙を零れさせる。言葉もなく胸に訴えるこの情景は、うつつ世とは思えない、美しい光景だった。

 これ以上は近寄れないジマに礼を言い、カスティはベリカと共に泉へ降りていく。ベリカへ淵で待つように言い、一人泉へ足を踏み入れた。途端に下肢が崩れて後方から悲鳴が聞こえるが、構わずエゼキエルを泉の中へ横たえる。


「……王子」


 呼びかけに、微かにエゼキエルの唇が震えた。カスティが目尻を下げて、顔を近づける。溶けかけた口で、愛しい彼の唇に軽く触れれば、朝日を浴びる砂の髪が金色に輝いた。


「……王子、もう大丈夫」


 腕に抱く身体に体温が戻ってくる。青白い顔に血の気が通い始め、微かに上擦った呼吸をしたエゼキエルが、ゆっくりと目蓋を開いてカスティを見上げた。

 ああ、綺麗だ。カスティは指先でエゼキエルの頬を撫で、そう思う。この瞳に、この先もずっと、命尽きるまで見つめられていたい。


「……貴方の願いは、叶うわ……!」


 カスティはそう呟いて微笑み、彼の胸に被さる様に砂となった。








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