第35話





 瞬間、悲鳴のような砂嵐が襲い掛かる。ベリカが抱きしめていた精霊を放り投げ、咄嗟に防御壁を形成した。前も分からぬほどの暗闇が視界を遮り、エゼキエルは反射的に弓を構えて頭上に矢を放つ。

 砂の影響を受けないそれは、光を帯びて地上を照らした。視界の向こうで、朧げに苦悶の表情を見せるカスティを捉える。シェハがエゼキエルを背に庇いながら、竜巻に似た砂を放った。ぶつかり合う風圧に片手で顔を庇い、頬を掠める鋭利な砂が霞む。


「オレがアイツを抑え込む。外すなよ!」


 エゼキエルをベリカに任せ、シェハが走り出した。迫りくる砂を縫うように身を屈め、右手の平に細い砂の柱を作ると、次々とカスティの身体へ向けて撃ち込んでいく。迷いのない動きに流石のエゼキエルも声を上げそうになるが、砂の楔は獣に届く前に、指先一つで操る砂によって叩き落とされた。


「……っ」


 地面へ落ちる砂へ、紛れるように体を滑り込ませたシェハが、片手の平の付け根でカスティの顎を真上へ張り飛ばす。しかしよろめく仕草もなく、ソレはぐるりと渦巻く瞳でシェハを見つめ返した。


<……ああ、可哀想な子供。土塊の為にだけ生きる、可哀想な子だ>

「……黙れ」

<育ての親に刃を向ける気分はどうだ。その拳で吹き飛ばすのは爽快か? 可哀想に、惨めだろう、何も出来ない自分が、ただ見ているだけの眼が、君は私とよく似ている>

「黙れ!!」


 ざらりと砂音が混じる声から逃れるように、シェハが叫ぶ。そうすれば怪物は空洞の唇を吊り上げて、一瞬のうちにシェハの片手に砂が巻き付いて引き倒された。


『シェハ……!』


 ゆらりと立ち上った陽炎からシェロールが姿を現し、手首を絞める砂を爆ぜる炎で弾き飛ばす。シェハが体勢を整え再び砂の柱を獣へとぶつけ、ぶつかり合う砂が火花のように散った。獣は育ての親の顔で酷く優しげに笑い、シェハを愛おしむ瞳で見つめる。


<君は可哀想だ、君は惨めだ、何もできないことをよく心得ている>


 シェハの瞳が真紅の輝きを増した。右手に砂が集まり、槍のような形に変化する。それを両手で持ち一度回転させれば、片足を前に踏み出してカスティの身体へ叩き込んだ。腕を弾いて胴をつくが、空洞のような衝撃が肌に伝わるだけで小さく舌打つ。それでも矢次に責めたて、獣は槍の先を構えた杖で捌きながら低く呻いた。

 あまり目にする機会はなかったが、シェハの動作はカスティによく似ている。エゼキエルは次の矢を構えてシェハの動向を見定めながら、息を呑んだ。

 紛れもないカスティの身体と対峙するのは、如何ほどの想いなのだろう。それでも迷いのない動きは、彼の信頼を伺わせる。

 シェハは信頼しているのだ。一矢報いる、エゼキエルのことを。


「あたし達も行くわよ!」


 ベリカが指笛を吹く。二人を護っていた精霊が、了解の声を上げて、渾身の力で渦巻いていた砂嵐を吹き飛ばした。拓けた視界で矢を構えた瞬間、カスティの姿をした獣の足元を突き破り、木々の根がその動きを封じようと絡みつく。


「押さえるんだ!」


 右手を天に掲げたルキファーの声が、耳朶を打った。動きが鈍くなった獣に、シェハは大きく槍を振り上げると、巻き付く大木に獣を張り付け、首元へ先端を突き立てる。砂で出来た皮膚を突き破り、その身を貫こうとした刹那、朝焼けの瞳と双眸が交わった。


「……シェハ……」


 刹那、反応が遅れる。紛れもないカスティの声。黒く陰惨な色へ再び変わったその瞳が、鬱蒼と笑って唇を動かした。


 可哀想な、子供だ。


「シェハ!!」


 エゼキエルの呼びかけに我に返るが、目の前の状態を把握する前に、体が真横に吹き飛ぶ。腹に鋭い痛みが走り、宙で体勢を立て直すことも出来ず投げ出された。地面に叩きつけられる前に、少女たちが作ったヤドリギで衝撃が緩和されるが、焼けるように痛む脇腹を片手で押さえ、蹲る。


「ルキファー様! シェハをお願いします!!」


 萎れた木枝が割れた音を立てて崩れ落ちた。

 エゼキエルは矢筒から一本引き抜き、天に向かって放つ。弧を描くそれは、シェハと獣の前に突き刺さった。意識が一瞬逸れたところを、少女達がヤドリギごとシェハを動かし、ルキファーの元へ下がらせた。

 シェハの身体にはカスティの心臓がある。それに強力な術者と言えど、彼は少年だ。これ以上、危険に晒すわけにはいかない。エゼキエルは隣にいるベリカを一瞥して、小さく耳打つ。


「ベリカさん、アレの狙いは私です。私が引きつけますので、シェハへ加勢してください」

「ええ!? なに言ってんですか! いやいやいやっ、確かにあたしは何もできませんけどっ」

「貴女の精霊は守りに特化しています。動けるようになったシェハを護ってください。頼みます!」


 エゼキエルは砂が吹き出す地面を蹴り、広間の壁へ沿うように走り出す。獣が視線で追いかけてくるのを確認し、二本の矢を引き抜くと、一本を口に咥え目を細める。

 この矢は守護の矢だ。取り巻く砂が威力を弱め、エゼキエルが進む道を照らしてくれる。片手に持つ弓を構えて一矢飛ばせば、獣は咆哮を上げてエゼキエルへ襲い掛かってきた。

 こちらへ来いと念じ、砂の柱を寸前のところで躱しながら駆ける。十分な矢を用意していたつもりだが、油断はできない。乾いた熱風が皮膚に当たり爆ぜる度、焼けるような痛みに奥歯を噛み締めた。

 追いかける獣の足は、そう速くない。カスティの身体に寄生しているせいだろう。ロガモールである彼女は今、術者と解離している状態だ。おそらく俊敏には走れない。すこしでもシェハが回復する時間を稼がなくては。


「……ッ、う、わっ」


 砂嵐に巻き込まれた天井が、頭上で崩壊する。雪崩れてきた石の塊を避けるが、砂に足を取られ転倒した。すぐに片手をついて起き上がるが、砕ける石がこめかみに直撃して視界が回る。


<私の名前を返せ! それは私と、私の母の、誇り高き名前だ!>


 ざらざらと輪郭のない悲鳴が、泣き叫ぶ衝動が、崩れ始める石の壁に反響した。噴き出した血をグローブで拭い、エゼキエルは足を止めぬように走り出しながら、再び矢を引き抜く。


<お前はあの男によく似ている。傲慢で横着な、国に媚びへつらう、母を裏切ったあの男に!>


 獣の後方に砂の槍が形成され、エゼキエルの行く手を阻むように撃ち込まれる。降り注ぐ針のような雨に、エゼキエルは咄嗟に体を捻って矢を放ち迎え撃った。閃光が針を弾き飛ばし左右へ反れるが、腕を掠めて鮮血が散る。


「ぐ……ッ」


 呻いて一度地面へ転がったエゼキエルを、ベリカの精霊が緩衝材のように抱き留める。視線を巡らせれば、視界を覆うように吹き荒れる砂から、ルキファーの力によって護られながら、シェハが起き上がるのが見えた。


「気合い入れなさい! 王子さまを守るのよ!」


 気丈なベリカの声が木霊し、背丈ほどに膨らんだ蛇が、エゼキエルを守りながら反転し、次にくる砂を跳ね返す。エゼキエルは小さく礼を言って、背負う矢筒に手を伸ばした。


<忌ま忌ましい、忌ま忌ましい、私の名前を返せ、私が受けるはずだった愛を、私が過ごすはずだった日々を、私が生きるはずだった明日を!>


 獣の黒い空洞の瞳から、どろりとした歪な涙が零れ落ちる。

 義兄が闇へ呑まれたその先は、どれほど暗く静かで、心細い世界なのだろうか。ただ一人、憎しみだけを胸に、愛する母との幸福を探して、彷徨ってきたのだろうか。

 胸に込み上げるこの感情は、エゼキエルが幸福だからこそ思う、同情だ。


「……返すことはできない」


 エゼキエルは立ち上がりながら、獣と正面から対峙する。


「お前は私の人生を生きることはできない」


 砂塵がぶつかり火花を散らす。苛烈な激情が渦巻いた熱を高ぶらせていく。


「私は、ケシェトの血を引く父の子だ。私が受け継いだものを渡しはしない」


 護るように身を張りつつも、ぶるぶると震えを繰り返すベリカの精霊を優しく撫で、エゼキエルは瞳すら乾く空気の中、双眸を細める。

 カスティの姿に重なり、自らと同じ容姿の、別の人間の姿が見えた。悲しいのだと、苦しいのだと、涙で表情を歪ませる姿が見えた。

 そう思う事が傲慢だと言うのなら、それで構わない。父と母の間に生まれたエゼキエルには、兄の奥底になど辿り着けるはずもないのだから。


「私の命の行く末は、カスティのものだ、お前に渡しはしない!」


 獣のうめき声に合わせて、右目から生える禍々しい花が光を放つ。これ以上、カスティの身体に根を張らせてはならない。砂と土で出来た体へ、血管のように浮き出た筋が、彼女を蝕み蠢いていた。


「……私は大丈夫だ、ベリカさんの元へ」


 震えあがる小さき精霊に伝え、エゼキエルは弓を構え直し、大きく呼吸を繰り返す。精霊が迷うようにエゼキエルへ振り返ったが、それに笑みを返して、視線でベリカがいる方向を示した。

 確かにこの精霊がいれば身を護れるが、今からエゼキエルが行う詠唱に巻き込んでしまいかねない。精霊は口を戦慄かせてから、軽い音を立ててその場から姿を消した。

 ベリカの怒号交じりの声が聞こえ、エゼキエルは眉を寄せて獣を睨み対峙する。ぴんと伸びた弦を強く引いて、矢じりの先を右目に合わせた。


「我が名はエゼキエル」


 清浄な風が崩れた壁の外側から、エゼキエルの元に集まってくる。灼熱の嵐を割く一陣の風に、獣が表情を歪めて慟哭した。


「楽園へ帰す、王の箱舟」


 足元にエゼキエルの瞳と同じ色をした魔方陣が出現する。

 ケシェトの王が、国を護る為に与えられた宝具の為の詠唱だ。本来、魔法の類を使用することに不得手な人間が、宝具に込められた魔法を呼び起こすことで完成する。

 場合によっては命の危険すら伴う力だ。いにしえより王族に伝わる最大の力。この機を逃せば次はない。集中しろと自らに語り掛ける。


 碇を降ろせ。この地が最上と心得よ。今は無き祖国を、命尽きるまで忘れるな。


 構える弓が白く光を帯びて、エゼキエルの背丈ほどの形状へ変化していく。美しくしなる曲線が強い光を溢れさせ、それは海原の向こう、地平線から昇る朝日に良く似ていた。

 獣が光を浴びて頭を振って悶え、空洞の口から黒い泡を吐く。動きが鈍くなったその背にシェハが乗り上げた。大きく振り上げた槍で背中から胸を突き、地面から突き出した複数の砂の針が、獣の動きを封じ込める。

 雄叫びをあげた獣の目が、エゼキエルを捉えた。瞬間、エゼキエルの背中から胸にかけて、衝撃が走る。防具を突き破り肺を貫いた砂に混じり、鮮血が目の前で瞬時に乾いて塵になった。


「ッ王子!!」


 シェハの声に、別の声が重なる。エゼキエルは双眸を穏やかに細めて、目の前に視線を向けた。

 驚愕に青ざめるその顔は、愛しい彼女の意識が手繰り寄せられた事を、示唆している。よかった、と胸の内で呟いて、エゼキエルは鋭く眼光を変えると、限界まで引いていた指先を離した。

 目を焼くほどの閃光が、闇を抜けてカスティの右目を貫いた。刹那、大きく傾いだ身体から、黒い液状の物質が天へ向けて吹き出す。カスティの口の動きとは別の声が、辺りに木霊して夜空を引き裂いた。


<お前を赦さない、お前をゆるさない、おまえをゆるさない! 一人生きられると思うな! 深淵まで引きずり込んでやる、お前の父と母と同様に、月の光も届かない闇の中へ!>


 貫かれた肺から、体の奥底が乾いていくような気がした。エゼキエルはよろけた足で何とか体重を支え、うっすらと笑みを浮かべる。


「……そうだ、一人では生きられない」


 掠れた声に混じり水音がする。口から吐き出したそれは、砂を滴らせて地面へ広がった。目の前が酷く霞む。それでも奥歯を噛み締め、踏み出した両足で怪物へ近づいていった。

 黒い霧が形を成し、白い光がエゼキエルを見つめる。エゼキエルは両腕を伸ばして闇を捉え、自身の方へ引き寄せた。

 流水と讃えられた双眸から、涙が零れる。黒い霧に落ちたそれは、波紋のように空気へ広がっていった。

 エゼキエルの両手首を掴むように、纏わりついた霧が指の形へ変化していく。視界に、青白いほど白い顔が現れた。黒い髪が風に揺れ、等しく暗く、それでも月に照らされた瞳が、目蓋の内側から現れる。それはエゼキエルと同じ顔でこちらを見つめ、瞬きと併せて雫を溢れさせた。


「……それでも、生きることを望みます。……貴方への憎しみを、貴方の孤独を、貴方がこの世に生まれたことを、未来永劫、命終わる時まで忘れない」


 義兄にい様。


 唇だけで言葉にすれば、怪物はエゼキエルの首を両手で掴み、憎悪と嫌悪に彩られた輪郭から別の感情を滲ませる。

 それを安堵だと気が付いたその時、霧は泡状に色を変え光の粒に導かれ、西へ傾いた月へ吸い込まれていった。






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