第34話



◆ ◆ ◆



「シェハ、本当に風の化身が、義兄の話をしていたのか!?」


 エゼキエルは弓を握りしめながら、部屋へ戻ってきたシェハへ問いかける。無言で頷く様子に顔を青ざめさせ、奥歯を噛み締めた。

 ヘイルムが兄の手中にあるのだとしたら、ルキファーもあるいは。ここは彼らの場所だ。状況的にエゼキエル達には分が悪い。

 考えを巡らせ再び口を開いた瞬間、シェハが大きく目を見開いて身震いした。


「……っカスティ!!」


 育て親の名を呼び、踵を返して今しがた来た道を引き返す。嫌な予感がした。エゼキエルは後方で動揺しているベリカと、顔を見合わせてから、シェハを追って走り出す。


「ど、どうしたのシェハ! カスティさんに何かあったの!?」


 愛用のツボを慌てて背負うベリカが声を張り上げるが、前を走るシェハから返答はない。エゼキエルが矢筒に手を伸ばした刹那、足を前に出し、廊下を滑るように立ち止まった。勢いのまま後ろから衝突したベリカを、膝を曲げて支えつつ、視線の先に居る存在に息を詰める。

 エゼキエルと同じく立ち止まったシェハが、二人を背に庇いながら瞠目した。


『シェハ……!』


 シェロールの声が聞こえ、シェハを取り巻くように姿を現す。しかしその魂の灯は、弱々しく光をくゆらせていた。

 数メートルもない場所に、カスティが立っている。杖の先は一つの眼が輝き、右目から無数のツタと花が伸びていた。彼女の燃えるような朝焼けの瞳は黒く濁り、ぽっかりと空いた口は歪な笑みの形を浮かべている。

 アレは、なんだ。

 エゼキエルは吐き気にも似た感覚が込み上げ、片手で口を覆った。後ろにいるベリカが、悲鳴を呑み込んで凍り付く。


<……お前を待っていた>


 カスティの成りをした黒いそれは、彼女の美しい声を汚しながら言葉を発する。


<ああ、ああ、……! エゼキエル……! 私の名前だ、返してもらうぞ……!>


 黒い砂がカスティの後ろから、三人に向けて放たれた。我に返ったシェハが咄嗟に砂で防壁を作り、両手を前に掲げ衝撃を受け止める。砂嵐が防音を撒き散らしながら激突した。足元の石畳が音を立てて割れ、若き術者は奥歯を噛み締めカスティを睨みつける。


「シェハ……!」

「前に出るな、後ろにいろ!!」


 支えようと腕を伸ばすエゼキエルに怒号を飛ばし、シェハは痺れ始める両腕に舌打ちした。エゼキエルは目の前にいる何かを再び視界に入れ、唇を戦慄かせる。

 同じ力を感じる。しかし同時に、砂上に浮かぶ月に吠えた、愛を失う獣に似た衝動が伝わってくる。空気を震わす砂は慟哭を運び、注がれる眼は憎悪を滴らせる。

 あれは黒き獣。自分と同じ、存在だ。


「カスティ……!」


 無意識に呟いた名前に、エゼキエルが持つ流水のような瞳が苛烈に煌いた。矢筒から矢を引き抜き、シェハから僅かに離れ、回廊の高い天井に向かって矢を放つ。

 父を殺し、母を殺し、国を滅ぼし、カスティの身体を乗っ取る忌まわしき獣。赦すわけにはいかなかった。

 放たれた矢は意志を持つかの如く眩く光り、光線のように砂嵐を割いて化け物の足元へ突き刺さった。視界を焼く光に呻き声が聞こえ、風が弱まったのを見計らい、エゼキエルはシェハの腕を引いて踵を返す。


「ベリカさん、防御壁を!」

「ひえええっ、どうなってんのよこれぇっ! あたし達を守って!!」


 ベリカが背負っている壺に呼びかければ、中から黒く柔らかな蛇が飛び出し、大蛇となって三人とカスティの前へ壁を作った。再び砂嵐がぶつかる轟音が鳴るが、鱗で覆われた守護精霊は四方へ衝撃を分散させ、攻撃を阻む。


「シェハ、大丈夫か!?」

「問題ない。……クソッ、どうなってるんだ……!」


 ところどころ鬱血しているシェハの両腕に息を呑み、エゼキエルは走りながら思考を回転させ歯噛みする。ヘイルムと対峙している間に、彼女に何があったのだ。右目から伸びる、草花の形をした禍々しいあれは。



 ──水を摂取しなければ発芽しないと言われました。



 エゼキエルは目を見開いた。


「水を被ったのか……!?」


 憶測の域を出ないが、カスティの右目に埋め込まれたという種。それが発芽したという事なのだろうか。そうであれば、あの体はカスティの物だ。迂闊に攻撃はできない。

 後方でベリカの守護精霊が、爆風に押されて悲鳴を上げた。巨体が三人の背中にぶつかり、向かっていた大広間の扉をこじ開け転がり込む。一番後ろを走っていたシェハを、シェロールが咄嗟に抱き寄せ背中から倒れ伏した。


「王子!」


 ルキファーの厳しい声が聞こえ、すぐにカスティを隔離するように床を突き破った木の根が、凄まじい速度で成長して入り口を塞ぐ。エゼキエルを三人の少女たちが庇い、険しい表情を巨木で覆った室外へ向けていた。


「ルキファー様っ」

「大丈夫か、まったくヘイルムが珍しく客人を連れてきたと思ったら、とんだ怪物を」


 衣服の裾を軽く持ち上げて歩み寄ってきたルキファーが、眉を顰めつつも口角を上げる。エゼキエルは息を整えながら、小さく萎んだ守護精霊に視線を向けた。


「ちょっとアンタ、しっかりしなさい! あたしを護るためについてきたんでしょ!!」


 抱き上げたベリカの腕の中で、精霊の子供は半泣きになりながらベリカにしがみ付く。柔らかな体を縮こまらせて、彼女の胸に顔を埋めて震えていた。

 無理もない。ベリカの精霊は従順だが、まだ子供だ。黒き獣の威圧に、ここまで耐えてくれただけでも称賛に値する。

 エゼキエルは早鐘を打つ心臓を何とか押さえつけ、床に座り込んでいるシェハへ近づいた。


「シェハ、大丈夫か? ……シェハ?」

「……大丈夫だ」


 覗き込んだ顔色が、すこぶる悪い。術者である彼には、カスティの危機が伝わっているのだろう。シェハは一つ頭を振ると、木の根に塞がれた扉を睨みつけた。


「あのバカをどうにかしないと、アンタ、死ぬぞ」


 低い声音に、息を詰める。エゼキエルとて自身の状況は理解していた。

 黒き獣は如何様にかして、カスティの身体と能力を乗っ取り、エゼキエルの命を奪いに来たのだ。

 俯き石畳に視線を落とし、胸に片手を当て唇を噛み締める。

 私の名前を返せと、アレは言った。

 父王と、前女王の間に生まれた、異民族の血を引く子供。愛する母親を失い闇に落ちた、この血の半分を分けた兄。

 もし兄の出立が、自分たちと近しい姿であれば、父王の寵愛を受け、前女王と幸せに暮らせていたのかもしれない。エゼキエルは彼の名前となり、国の歴史の一部として刻まれたのかもしれない。

 父は、母は、エゼキエルが心に決めた答えを、無責任だと言うだろうか。

 ベリカに励まされた言葉が、この時を待っていたかのように反芻する。



 ──……だから王子さまも、自分のことを否定しないで。自分が生まれたことを、王子さまが誰よりも喜んでいいはずだわ。


 

 エゼキエルは弓を握りしめ矢筒から矢を引き抜くと、シェハに向かって問いかけた。


「どうしたらカスティを助けられるか、考える」

「……助けられると思うか」

「必ず助ける」


 揺れるシェハの声を、はっきりと肯定する。彼はエゼキエルを見上げて表情を歪ませ、両手で己の頬を叩いて立ち上がった。


「アイツの動きを止めたい」


 傍に近寄ってきたベリカを交え、シェハが口を開く。


「上手くいくかは分からないが、カスティの右目に、カスティを操る魔力の源があるのを感じる。そこを狙って壊せば、助かるかもしれない」

「そ、そんな、カスティさんは大丈夫なの?」

「アイツの心臓はここにある。オレが倒れない限り、アイツはいくらでも再生する。大丈夫だ」


 シェハが軽く胸を叩き言えば、ベリカは安堵の息を吐いた。彼女の身体を傷つけるのは本望ではないが、シェハの提案が一番試す価値があるだろう。

 問題は、どうやって動きを止めるかだ。

 このままルキファーの力を借り、大木の中に閉じ込めている現状では、カスティの姿を視認することは難しい。エゼキエルが歯噛みすると、シェハが長く息を吐き出しベリカを見やる。


「ベリカ、王子を護れ」

「へ? ……え、ええ!? あたしが!?」

「それで王子。アンタがカスティの右目を狙え」


 目を白黒させて声をあげるベリカに応えず、シェハはエゼキエルの双眸を見つめた。カスティと同じ朝焼けの瞳が、外から差し込む月明かりに照らされ、鮮やかに輝く。


「アンタの矢なら、アイツに届く。アンタがカスティの右目を射るんだ。──外せば、命はないと思え」


 エゼキエルは息を呑んで弓を握る手に力を込めた。

 確かにカスティの心臓、魔力の根源はシェハが持っている。故に痛みも感じない。しかし体は間違いなく彼女のもので、彼女の意識がどこかにあるのかもしれない。矢を射る一直線上の距離、失敗すれば間違いなく、エゼキエルに訪れるのは死だ。

 汗が額から滑り落ちる。自分に出来るのだろうか。迷いなく射られるのだろうか。獣の姿をした両親の仇を、朝焼けに解け瞬く、美しきひとを。


「……迷っていい」


 シェハが、普段の彼とは似つかわしくないほど、静かな声で囁いた。


「……一矢打つまで、迷っていい。……カスティはここにいる。大丈夫だ」


 片手を取り、シェハが自らの胸にエゼキエルの掌を押し付けた。衣服を、皮膚を通して、強い鼓動の音がする。血潮を押し出し、魔力を放出させ、明日を生きる音がした。


「……分かった。絶対に、外さない……!」


 エゼキエルの声に涙が混じる。シェハは微かに笑うと、轟音を上げた扉へ振り返った。

 獣の侵入を阻んでいた巨木が、みるみる萎れて根元から砂に変わっていく。灼熱の砂漠を吹き荒れる熱風が、三人まで届いて悲鳴が混ざった。


「いやはや、これは……」


 様子を窺っていたルキファーが、唇を笑みの形にしたまま唸る。姿を現したソレは、どろりと闇を吐き出して、いっそう凄惨に微笑んだ。


<お前もまた、私を閉じ込めるのか。ああ、よく似ている。あの忌まわしい男に、お前はよく似ている……!>


 砂嵐に混ざる声に憎悪が滲む。その身の内から膨れ上がるソレは、紛れもなくエゼキエルの死を望んでいた。

 空気を震わす声に足が竦む。

 それでもエゼキエルは獣を睨みつけた。


「そうだ、私は父の子だ。だからこそお前を、赦すわけにはいかない!」





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