第33話




 ◇ ◇ ◇


 

 カスティは澄んだ夜空を見上げ、溜め息交じりの息を吐きだした。石段の上に腰を下ろしていたシェハが、横目にカスティを見上げるのが気配として伝わってくる。

 思ってもない誤算だ。ここまで来て泉に近づけないなど、予想もしていなかった。夕食を取りながら四人で話し合ってみたが、具体的な策など浮かぶ訳もない。

 カスティにとってシェロールは、自分の心臓を護ってくれていた恩人であり、家族だ。魂を帰する事など考えたくはない。シェハの弱まった心臓も恐らくまだ本調子ではなく、カスティへ戻すなど論外だ。

 二人に関して選択を誤ったつもりはないが、こんな場所でエゼキエルの足を引っ張ることになるとは。


「……カスティ」


 召喚に応じて漂っていたシェロールが、カスティの傍へ舞い戻った。視線を向けると、翁は柔らかな面差しで見つめ返す。


「……どうしたら皆で道を進めるのか、考えているの」


 杖を支える片手に力がこもる。がり、と石畳を引っ掻いた音が、空しく感情を震わせた。杖の柄に額を押し付ければ、冷たい感触が伝わり、尚のこと無情さを突き付けられる。

 おそらくエゼキエルは、カスティとシェハを置いて先へ進まないだろう。彼は二人の同情を買ったのだ。それを己の責務として振る舞う。泉へ行きつく選択を諦めることを、かの王子は納得しないだろう。


「……決断する時なのかもしれんぞ、カスティ」


 シェロールの声に顔を上げると、護り人は微笑んで両手を伸ばす。包まれた頬が、焚き木にあたる肌のように淡く光り、目蓋を伏せてその暖かさを甘受した。

 寄せられた眉が、眉間に深く皺を刻む。


「わたしには貴方を帰すことも、シェハから心臓を戻すこともできないわ」

「……カスティ」

「シェハの心臓が回復するには、時間がかかるの。それに、シェロール翁、貴方を手放すなどわたしは」

「……確かに別れはつらいものだ。だが、死を思うだけでは、明日は生きられん」


 ハッとして目を見開くと、シェロールは柔和な表情を崩さぬまま、ゆっくりと一つ瞬いた。優しい双眸に見つめられ、鼓動の聞こえない胸が苦しく痛む。小さく首を振って、嫌だ、と呟いた声は、自分ではどうしようもないほど掠れていた。


「お主はもう、一人ではない。わしに護られているほど、弱くもない。……明日を思う事、未来を願う事を、皆と共に考えていいはずだ」


 今この瞬間のように。

 囁きは身に宿る炎となってカスティを温める。脳裏にエゼキエルの姿が浮かんでは、強い閃光となって目蓋の裏側で弾けた。涙が出ない身体でも、喉元に衝動が込み上げるのが分かる。杖を握る指には力が入り、唇を噛み締めて必死に叫びだしたい衝動を押しとどめた。

 この身の変化は、自分が一番よく理解している。シェロールの言わんとしていることも、勿論。


「……わたし、は」

「ここにおったのか、大地の子よ」


 カスティの声に重なるように、羽ばたきが空に響いてヘイルムが姿を現した。吹き下ろした風にマントが翻り、カスティは咄嗟にシェハを背に庇いつつ、ヘイルムを見上げる。シェロールがカスティの肩に両手を置き、双眸を細めて顔を上げた。


「ふぅん……それが住まう魂か。土くれに美しい炎とはまた、贅沢よの」


 シェロールを見やり目を眇めた化身は、特に感慨もない声音で呟く。三人の前で浮遊したまま腕を組んで、カスティを見つめ、次いで視線を逸らした。カスティが目線の先を追いかけると、風が吹き抜けてざわざわと森が騒ぎ出す。


「……美しかろう。生命が息づき、同時に死を迎える場所だ」

「……ええ、とても美しい森です」

「そうだろう? ここには自然の摂理と道理が息づいている」


 世間話のつもりなのか、ヘイルムの瞳から感情が読み取れない。カスティは肩越しに振り返ってシェハと視線を合わせる。我が子は訝し気に眉を寄せ、黙せよと無言で指示を飛ばしてきた。カスティは頷いて再びヘイルムへ目を向ける。


「……だから、道理を外れた者が好かんのだ」


 突如、ヘイルムの足元から風が舞い上がった。片手を眼前に掲げ顔を護るが、身を切る様な冷たい風だ。睨んだ先のネオンブルーが苛烈に輝き、彼の感情の高ぶりを如実に表している。


「待っていたぞ、ここへ来るのを。道理を外れた土くれめ」


 瞳に浮かぶは、純粋な怒り。カスティは呼吸を止めて目を見開いた。

 この化身は、自分たちの事を知っている。

 背筋を悪寒が這い上がった。目の前にいる者は敵だと頭が認識する。カスティは無意識に薄く笑うと、背筋を伸ばし両手で杖を構え直した。シェロールが険しい表情で、体を炎へ変えていく。


「黒き獣の言うておった通りだ。この大地を汚す土くれは、お前のことだな」


 黒き獣という言葉にぴくりとこめかみを震わせ、カスティは目を細めた。伺わずとも、カスティとシェハの雇い主であり、エゼキエルの義兄の事だろう。まさか風の化身まで手中に収めているとは。

 どうする、と思考を巡らせる。ヘイルムの矛先は完全にカスティへ向いている。ここで防ぎ切れば、エゼキエルに害はないだろう。目の前の存在がどれほどの力か分からないが、エゼキエルに傷がつかないのであれば、恐ろしくない。


「シェハ、王子とベリカさんの傍へ。彼らを護って」

「お前は」

「わたしは大丈夫。シェロール翁もいるから」


 シェハは躊躇うように視線を彷徨わせるが、シェロールと目が合うと、頷いて踵を返す。

 シェロールは炎を守護する、強い力の魂だ。風を上手く利用すれば渡り合える。

 シェハの足音が遠のくのを背中で感じながら、カスティは杖をヘイルムへ向けた。シェロールを纏う体が緋色の輝きを帯び、杖の先端では巨大な眼が、相手を見透かすべく開眼する。

 どこからともなく吹きすさぶ砂が、取り巻き爆ぜる音を立てた。

 片足が石畳を擦った刹那、ヘイルムが口角をつり上げて、笑う。


「……試練の夜だ、心せよ」


 

 ヒヤリと冷たい感触が、急激な意識の変化を、促していく。



「……え?」


 酷く間抜けな音が、頭上で聞こえた。どろりと砂が溶け出し地面へ散った。何が起こったのか分からず、カスティは片手で自身の頭に当て、濡れた感覚に短い悲鳴を上げて後退った。


『カスティ!!』


 炎から人型へ姿を戻したシェロールの声が、ぐらりと揺れる。

 水だ。水を被った。恐ろしいほど神聖な、透明で清く美しい水。足元を見ると小瓶が転がっていた。いつの間に投げられたのだろう。痛みは無い、シェハを呼べば回復できる。動揺で視界が傾ぐ。何かが体内を這い上がってくる。おぞましい感覚が、手足を痺れさせて杖が指から滑り落ちた。

 右目が疼いて、ぞわぞわと脳髄を掻きまわす。


「……あ、あっ……エゼキエル、おぅじ……ッ」


 無意識に呼びかけた声を皮切りに、隠された右目を突き破り、黒い花が天へ向けて開花した。





 

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