第32話





 ツタが石の隙間に根を張り、森林から降り注ぐ木漏れ日が、白い外壁を照らす。ところどころ崩れたそこからは、色とりどりの花が咲き、神殿を美しく荘厳な雰囲気に飾っていた。耳をすませば鳥のさえずりが聞こえ、近くでは水の流れる音がする。

 エゼキエルは辺りを見渡しながら、目を瞬かせた。

 穏やかな街から見えていた場所が、こんな壮麗な景色に彩られているとは。もしかしたらヘイルムの案内でしか入れない、特別な森林なのかもしれない。


「すっごい綺麗な場所ね~。薬草も花も沢山ありそう」


 うっとりとした声音で商売の算段をし始めるベリカに、カスティが苦笑する。彼女も物珍し気に頭上を見上げ、空を覆うように伸びる大木に、目を細めた。


「確かに美しい森ですね。この神殿も。……この奥に泉があるのでしょうか」


 興味深く見つめた矢先、先に入っていたヘイルムが戻ってくる。化身は四人を手招いて再び神殿の奥に進むと、石の枠組みで出来た木製の扉を押し開けた。

 神殿の薄暗い廊下に、太陽光が差し込む。眩さに一瞬片手で顔を覆えば、すぐに美しいハープの音色が耳朶を擽った。

 石畳に高い天井の、王と民が謁見する場所に似た部屋の奥で、白い装束を身に纏った人物が優雅にハープを奏でている。流れる指先が弦を弾けば、澄んだ音が四人の元へ届き、エゼキエルはその人物に目を見開いて唇を震わせた。


「……ルキファー様」


 名を呼んだ声に重なり、音が止む。彼は閉じていた目蓋を上げてエゼキエルに双眸を向け、柔和に微笑んで見せた。


「ああ、やっぱりそうか。やぁ、王子。久しぶりだ」

「……お久しぶりです」

「大きくなった。会ったのはいつ以来だったか……」


 ルキファーは屈めていた体を起こし、椅子を押して立ち上がると、裸足のまま石畳の上を歩いてくる。話しかけようと口を開いたベリカを片手で制し、エゼキエルは緊張した面持ちでルキファーと対峙した。

 切れ長で若草色の瞳に、エゼキエルの姿が映る距離で立ち止まった彼は、カスティやシェハ、そしてベリカを一人ずつ見やり、再びエゼキエルに目を向ける。


「国が滅んだと、風の噂では聞いていたが……。良き仲間に出会ったのだな」

「はい」

「うん、嬉しく思うよ。長旅で疲れただろう。今、部屋を用意しよう」

「ルキファー様、……我々は『願いの泉』を探し参りました。千年に一度現れるという噂の。もしや、ご存じなのですか」

「うん? 前に開いたのは、そんなに昔だっただろうか。そのことなら、もう安心しなさい。君たちは珍しくヘイルムが連れてきた客人だ。休んだら入り口まで連れて行ってやろう」

「えっ……ほ、本当ですか!? 休んでなどいられません、すぐにでも」

「まずは落ち着きなさい。……客間の用意を頼む」


 驚愕に目を見開き、詰め寄るエゼキエルに笑い、ルキファーは神殿の奥へ向けて軽く手を叩いた。そうすれば、どこからか気配だけが動き、エゼキエル達の傍から離れていく。彼は少しこの場で待つように言い、エゼキエルが問いかける前に、ヘイルムと共にハープの傍へ再び歩いて行った。


「……な、なに、王子さま、お知り合いなんですか?」


 状況についていけず、声を潜めながら耳打ちするベリカに、エゼキエルは無意識に止めていた息を深く吐き出すと、困惑する三人へ振り返る。そして身を寄せるよう手招き、ルキファーの様子を肩越しに確認しながら口を開いた。


「彼はルキファー。人間と同じ顔立ちをしているが、人間ではない。創造主の子である四姉妹に仕える、天使の一人だ。ヘイルム様の同胞と言うべきだろうか」

「天使?」


 カスティの疑問に頷きかけ、一瞬迷った後、エゼキエルは更に声を低める。


「……正確には天使の一人だった。その昔、美しい身の内に秘めた傲慢により、地上へ落とされたと聞いている」


 エゼキエルは息をついて、グローブをはめた指先で自らの顎を撫でた。幼い頃、国を訪ねてきたルキファーと会ったことがある。その時は遠巻きに父王との会話を聞いていただけだったが、優しい面差しに薄ら寒さを感じる印象だった。

 エゼキエルは視線を足元に落とし、微かに眉を寄せる。


「……いかがされました、王子」


 上体を屈め耳打ちする静かなカスティの声に、首を振って顔を上げ、石を組んで出来た窓から景色を眺めた。この場所がルキファーのテリトリーであるなら、ここはあの世に近しい場所という事になる。彼が住まうと言われている、冥界の川がある場所だ。

 『願いの泉』は生を感じる場所だと考えていたのだが、生と死は常に隣り合わせであるという事なのだろうか。


「なぁ本当に、オレたちが探している泉はあるのか? 騙される可能性はないのか?」

「……彼は自分に絶対の自信がある。嘘をつくことを嫌うんだ。有益な情報を得られる事は、間違いない」


 訝しむシェハにそう返した後、エゼキエルは服の裾を引っ張られる感覚がして振り返った。そこにはエゼキエルの腰ほどしかない、三人組の少女が居て、四人を見上げて微笑む。


「お部屋のご用意ができました」


 空気に溶けるような金糸と、若草を混ぜたような色の少女たちは、そう言ってルキファーへ顔を向けた。ハープに布をかけて片付けていた彼は、はじめと同様、優雅に四人へ近づいてくる。


「ありがとう。さぁ行こうか」


 ルキファーの後を追い歩き出せば、ヘイルムがシェハの傍に降り立ち、子供のように顔を覗き込んだ。


「大地の子よ。腹は減っていないか? 食事も用意しよう」

「な、なんだ、オレに構うな」

「連れない子よの。何が好きだ? 木の実はどうだ、魚もいいぞ。ああルキファー! 猪はまだあるのか?」

「いいよ、持ってこさせよう」


 すっかりシェハを気に入ったのか、ヘイルムはにこにこと笑みを絶やさず、彼の周りに纏わりついている。対するシェハは甚だ迷惑そうに、唇をへの字に曲げていた。時折顔に羽があたり、鬱陶しそうに片手で払いのけている。

 エゼキエルがカスティに視線を向けると、彼は我が子の様子を微笑まし気に見つめていた。

 石畳を抜けて扉をくぐると、絨毯が敷かれた暖かい部屋に通された。衝立で仕切られた空間にベッドが用意されてあり、瞳を輝かせたベリカが早速荷物を下ろして寝転がる。


「こんな上等なベッド初めてだわ! 布はシルクかしら、ベッドボードもお洒落~! 緻密にガーベラも彫ってあるじゃない! 製作費は幾らするのかしら。原材料費を押さえたら、あたしの店でも扱えないかしら」

「お前は金儲けばかりだな、もっと何か思わないのか」

「あたしは商売の為に来てるの! 商売魂があって言って!」


 げんなりと様子を眺めるシェハに片手を上げ、ベリカは部屋を物色し始める。エゼキエルは二人の様子を穏やかに眺め、ふと自らに用意されたベッドに視線をやり、ぽかんと口を開けた。

 自分の身丈には大きすぎるサイズの、縦にも横にも広いベッドだ。何故このようなと問いかけようとした矢先、隣に立ったカスティが酷く狼狽して、ルキファーに視線を向ける。


「す、すみません、あの、これは」


 ベッドが三つしかない。エゼキエルは再びぽかんと口を開けて、今度こそルキファーに向けて口を開いた。


「我々二人用、ですか?」

「うん? そうだ。……おや、君たちはそういう間柄ではなかったのか? すまない、てっきり」

「違います! 違います! わたしは王子の従者です!!」


 真っ赤な顔になり砂で出来た皮膚を溶かしながら、カスティが悲鳴交じりの声で否定する。エゼキエルは一瞬言われた意味が分からず、反応が遅れるたものの、合点がいくと指先で頬を掻いてベッドから視線を逸らした。

 なるほど、この長さはカスティの慎重に合わせたサイズらしい。エゼキエルとしてはやぶさかではないのだが、これ以上カスティが砂を零れさせる前に、わざとらしい咳払いをして片手で口元を覆った。


「ルキファー様、お心遣いは嬉しいですが、我々は同じ旅路を行く者同士ですから……」


 エゼキエルは自身の耳が朱に染まっているのを自覚するも、素知らぬ顔でルキファーの厚意を断る。彼は特に気分を害した様子もなく、むしろ心底愉快そうに、控えていた少女たちにベッドを分けるよう指示を出した。

 一瞬、キングサイズのベッドが撓むと、シルクだと思っていた布は植物の葉へ、美しい木目のベッドボードは木の枝へ、しっかりとした骨組みは土へ変化し、一人でに蠢いて別々のベッドへ形を変えていく。間近で眺めていたベリカが、短い悲鳴を上げて顔を青ざめさせていた。


「……ルキファー様、お招きいただき大変感謝致します。このように部屋まで整えて頂いて……、しかし、休む前に、どうか」

「せっかちなところは父君に似ているな、君は。しょうがない、来なさい」


 背負う矢筒を壁に立てかけ、落ち着きなく傍に近寄るエゼキエルに苦笑を返し、ルキファーは優雅な動作で歩き出す。

 カスティとシェハがエゼキエルに続いて行こうとすれば、腕を伸ばしたヘイルムによって、シェハは衣服の襟を摘まみ上げられた。


「なっ、!? おい、離せっ」

「お前達二人は駄目だ。形を保っていられなくなるぞ」


 笑い交じりの化身の台詞に、エゼキエルは目を見開いて振り返る。細い腕はシェハの襟首を掴んだまま、ぐっと引いて体を近づけた。訝しむシェハの頭を空いた手で優しく撫で、ヘイルムは双眸を細める。


「ルキファー、大地の子を気に入っている。無謀をさせるな、先に説明してやれ」

「これはすまない」


 呆れた声音で睨むヘイルムに笑い、ルキファーは足を止めてエゼキエルに正面を向けた。


「……王子、君の探す『願いの泉』は、この神殿の奥にある」

「っそれは本当に願いが叶う泉なのですか!?」

「そうだな。泉には強い力が蓄えられていて、生命の息吹をもたらす。美しい場所だよ。透明な水と、波紋を浮かべる水面が、鏡のように景色を映すんだ」


 元天使は眉尻を下げて、部屋から続く回廊の方へ視線を向けた。エゼキエルも同様に顔を向けると、厳かで神聖な風が草木の香りと共に吹き抜ける。


「あそこに行くためには、森に分け入る必要がある。生きる者の道だ。一つの身体に宿る、一つの魂の道」


 だから、と一呼吸置いて、ルキファーはカスティを見上げた。

 静かな、さざ波一つ立っていない深い色の瞳に見つめられ、カスティが半歩身を引いて瞳を揺らす。高圧的な態度ではないはずの瞳に、僅かに気圧される感覚がした。


「……君たちのように、互いに別の魂を宿す器は、森の中へ入れない」


 ひゅ、とカスティの喉が鳴った。片手で掴んでいた杖の先端が、地面に押し付けられ歪な線を描く。ヘイルムに捕まれたままのシェハも、目を見開いた後、視線を左右へ揺らし俯いた。


「君たち二人は、互いに別の魂を宿しているのだろう? 森の中へ足を踏み入れれば、たちまち形を保っていられなくなる」

「お、……お待ちください、それでは、彼らとは共に泉へは行けないと……?」


 狼狽し声を震わせるエゼキエルに、ルキファーは微笑んで頷く。


「そうだ。身体は天より定められた魂の住み家だ。それを軽んじれば墜落する。……私のようにな」


 僅かに影が掛かった眼差しで、ルキファーは自らの胸に軽く片手を添えた。

 確かにルキファーの言う通り、カスティにはシェロールの魂が、シェハにはカスティの心臓が息づいている。伝えられた内容に理解は示すが、ここまで共に苦楽を乗り越えて来て、あと一歩を共に歩めないなど残酷すぎた。

 エゼキエルとカスティは約束したのだ。最後まで見届けると。

 言い募ろうと戦慄いた肩に、カスティの手が触れた。困惑を隠せず見上げると、彼女は目尻を下げてエゼキエルを見下ろす。


「……ここまで来たのですよ、王子」

「しかし……っ」

「貴方の目的は、泉に国の復興を願う事です。ここまで来たのですよ、お忘れですか」

「ここまで来たから、私は皆と共に行きたいのだ」


 カスティの腕を掴み、喉を震わせるエゼキエルに、彼女も言葉を失った後、酷く表情を歪めて唇を噛み締めた。

 言い表せないほどの悔しさが、目尻に浮かんでいる。エゼキエルの肩に触れる指先から、自らも共に在りたいと願う想いが、伝わってくる。

 二人無言のまま見つめ合っていれば、ベリカが両手を伸ばし二つ分の頭を軽く押さえつけた。


「まずは落ち着きましょ! あたしだって、みんなで行くのがいいと思う。ちょっと戦術を考え直さなくちゃ。今はその時間だわ」

「ベリカさん……」

「カスティさん、こういう時、急いては事を仕損じるって言うのよ。あたしの父がよく言ってたわ。まぁ、あたしの父はせっかちなんだけどね」


 カスティが眉尻を下げてエゼキエルから身を離し、両手で杖を握りしめ小さく頷いた。ベリカは満足げに笑って、今度は真剣な顔でエゼキエルを見つめる。


「王子様、あたし達が、一番考えなくちゃダメですよ。二人をどうしたらいいか」

「もちろんです」


 やはりこの少女は強き華だ。エゼキエルは目を細めて体の力を抜くと、黙って様子を窺っていたルキファーに振り返った。


「すみません。ルキファー様。我々はやはり、皆で泉に辿り着きたい。その策を考えます」

「……良きことだ。いいよ、私は隠れないから、まずは休みながら考えると良い。食事と風呂の用意をさせよう」


 そう言って元天使は踵を返し、部屋を出て行った。後ろ姿を眺めていたヘイルムも、シェハの襟を離すと、悪戯に笑って後ろ手に指を組む。そしてルキファーの後を追いながら肩越しにエゼキエルへ視線を向けた。


「今は無きケシェトの王子よ。ここは試練よの。頭を回せ、道は開かれているぞ」


 刹那、草木が根付くタイガーアイが、清廉なネオンブルーに輝く。産毛が一斉に逆立つ感覚に息を呑み、エゼキエルは肩を跳ねさせて目を見開いた。自然と早くなる鼓動を深い呼吸で落ち着かせ、顎を引き無言で頭を下げる。

 万物の化身は言い知れぬ恐ろしさを残し、風に乗って軽やかに姿を消していった。





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