第29話




「ロガモール様。貴女の心は、どこにあるのでしょうか」


 静かな問いかけに、俯いていたカスティが顔を上げる。その横顔は酷く狼狽し、けれども双眸は見開かれてエカを凝視した。


「遠き昔に、置き去ったままでしょうか。それとも自分の一番近くに、今も絶えず守られ息づいているのでしょうか」

「…………わたし、の、……心……」

「おっと、出しゃばりが過ぎましたね! ご清聴ありがとうございました。それでは私は見回ってまいりますので、何かあれはお呼びください」


 再び自らの胸をひと撫でしたエカは、尻についた砂を払いながら立ち上がる。長身を見上げた二人に、優美な動作で腰を折って一礼した。

 身を翻し去っていく後ろ姿に、エゼキエルは腰を浮かせて呼び止めかけ、すぐに思い直し口を閉ざす。砂には先ほど描かれた猫の絵が残っていて、穏やかに少しずつ風に流されていた。

 その様子を見つめながら、触れているカスティの片手は放さず、ローブの合わせ目を手繰り寄せる。


「……夕刻、戦う貴女の姿を見て、……カスティなら何も感じさせず、私を殺してくれるのだろうと、少し、考えていた」


 カスティの視線へ驚愕が混じり、こちらを見つめてくるものの、咎める言葉はない。それが逆に、思考する事を許された気がして、エゼキエルは焚き火を見つめる。

 ベリカの言葉に励まされても、心が拒絶している感覚がした。頭では肯定的に捉えようとするが、父と母の顔を思い出すたびに、自らの出生理由を他人事として昇華できずにいる。

 エゼキエルは盗賊と戦うカスティを見て、確かに思ったのだ。

 彼女なら一瞬で、恐怖を感じる意図間も無く死ねるのか、と。


「……苦しみは与えません」


 静かに口を開いたカスティに顔を向けた。彼女は再びぼんやりと炎を見つめ、次いでエゼキエルと視線を交える。その表情は焦燥を抱えていて、エゼキエルは目尻を下げた。

 体温を伝え握りしめていた片手を解き、今度は胸の奥にまで感情が届くように、カスティと距離を詰める。同じく寄りかかってきた彼女を、寝袋に片手をついて支えた。


「……そうだな。だけど私は、きっとそれでは、ダメなのだろう」

「死ねない、と?」

「いや、……私は苦しんで死ぬべきだ」


 息をのむ音が聞こえる。エゼキエルの心境は、風のない草原のように凪いでいた。

 義兄にとって、エゼキエルの死は救いである。だからこそエゼキエルは、自身に忍び寄る死を恐れる。

 カスティに命乞いをした気持ちに嘘はない。正しく知るべきだというエカの話もその通りで、ベリカの心配も受け止めたい。

 無責任だと糾弾されようとも、王族の不祥事だとなじられようとも、エゼキエルは自らの生を喜びたかった。それ故に悲しみ、嘆き、矮小な己を恥じて、広い世界を知りたかった。


「たとえ両親が引き起こした仇でも、今、生きているのは私だ。安らかに大往生など論外だろう。苦しみ抜くことでしか、私が生まれた枷は外れない。それでも生きて、……生きて、私は死ぬべきだ」 


 たくさんの愛に満たされて、たくさんの後悔を抱えて、死にたくないと苦しんで最期、エゼキエルは死ぬべきなのだ。 


「…………そんなこと、させないわ」


 カスティが体の向きを変え、顔色を青くしてエゼキエルの肩を掴む。驚いて目を瞬かせると、彼女は首を振って表情を歪めた。


「だめ、苦しんでなんて死なせない」

「カスティ」

「それならここで、潔く死を選んで。わたしが一瞬で殺すわ。あなたは奪われなくても良い平穏を奪われ、あるべき人生を捨て苦しんだ。もう十分よ。この先、死ぬ瞬間まで苦しんでいる必要なんかない」

「…………カスティ」

「やめて、だめ、あなたを殺すのはわたし。苦しんでなんて死なせないから……!」


 縋り付く指がローブの上から、衣服越しでも皮膚に食い込んでいく。泣きそうに揺れる声が、痛みが、この瞬間が愛おしく感じるのは何故なのか、エゼキエルは薄々気がついていた。

 この優しい人は、誰よりもエゼキエルの痛みを知っている。恐らく自分自身でも気が付かないほど、奥深くまで。それはきっと彼女が抱えた負い目であり、憎さであり、──エゼキエルの心を、彼女が持っているからだ。

 エゼキエルはカスティの腕に触れ、両手で引き寄せて抱擁する。心臓のない体に心音は聞こえない。それでも彼女が言葉を紡ぐたびに、砂で覆われた空洞内が震え反響した。

 エカが惨めだと表現した心が、今の自分なら正しく共感できる。

 彼女が自身を化け物だと罵る度に胸が痛むのは、エゼキエルがカスティの心を欲しているからなのだ。

 背中を撫でて目蓋を閉じる。鼻腔へ、吹き荒ぶ砂を思わせる、ほろ苦く切ない香りが通り抜けた。同じ力で抱きしめ返したカスティが、エゼキエルの肩口に顔を埋める。


「……貴女の同情を買ったのに、潔い死を選べない私を、許して欲しい」


 耳のすぐ側で、砂の流れる音がする。酷く心地がいいのに息苦しい、そんな音だった。

 次第に強くなる腕の力に、僅かに体が浮いて、エゼキエルは寝袋の上で膝立ちになる。そうして砂の髪に両手の指を通し、頬を捉えて彼女の相貌を上向かせる。涙はないが揺れる瞳は、真っ直ぐにエゼキエルを見つめていた。

 まるで目に見える全てから、一字一句漏らさぬように。

 エゼキエルは短く感嘆をこぼし、指先で輪郭を辿った。互いの額を押し当て、ぶれるほどの至近距離で見つめ合い、緩やかに目蓋を閉じる。


「…………今はまだ、死にたくない。一つ今日を知るたびに、明日を願って進みたい。自分が望まれ、生まれてきた事を喜びたい。誰かと出会い別れた事を、いつくしみたい。そうやって生きることを許して欲しい」


 カスティの両手が、彼の声に応えようと頬に触れる。仄かに暖かな手の平は、体温と言うには無機質だったが、エゼキエルは込み上げた涙を喉の奥で堪え、声を震わせる。


「生きようと望んだ私を、許してくれ。……誰よりも苦しんで死ぬ、最期を、……どうか他の誰でもない貴女に、……許して欲しいんだ」


 

 

 

 



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