第24話



「……」

「確かに王様は誓約を心に刻み、母子には別室を用意され、衣食住を保証されました。けれども王様の愛は冷め、顔を見せなくなりました。臣下も口を利かなくなりました。母の囁きと、幼い子の泣き声だけ……、部屋にはそれだけが残るようになっていきました」


 手袋をはめる指先が、再びテーブルをなぞる。美しさを保ったまま皺を刻む白が、微かな音を立ててクロスを揺らす。

 風に乗って運ばれる砂も、エゼキエルたちの居る空間だけ避けていくようだった。

 エゼキエルは記憶に居ない母子に思いを馳せ、片手を己の額に押し付ける。貧血のような眩暈がした。

 けして開けてはならないと、厳重に鍵が掛けられた部屋。鍵穴から覗き込んだ部屋の、丸窓に見えた夕日。困惑した父と母の顔。それらが濁流となり、脳裏を凄まじい速度で回っていく。


「お妃様は悲しみましたが、我が子の成長を心の支えに、心の均衡を保っていました。……そして我が子が成長しつつある、ある晴れた昼下がり。外が騒がしい事に気がつきました」


 ざわりと、胸の奥が騒ぎ始める。エゼキエルは片手を額から離し、憔悴した双眸でエカを見つめた。


「お妃様は何事かと思い、窓から外を眺めました。理由はすぐに分かりました。そこには流水に似た滑らかな髪を持つ、ハッとするほど美しい女性がいたのです。……その瞬間に、お妃様は全てを悟りました」

「…………私の」


 唇にエカの人差し指が触れる。本当に軽く、押し付けられる。

 たったそれだけでエゼキエルは、エカから視線を逸せなくなった。言外に黙しろと合図する指先から、呼吸すら奪われる錯覚がした。

 エカは音もなく立ち上がると、その長身を屈してエゼキエルに剥製の顔を近づける。奥したエゼキエルはしかし、身を引くことも叶わず、顎を上げて目を見開いた。


「その美しい女性の腕には、道行く誰もが振り返るような、健やかで可愛らしい赤ん坊がいました」


 優しい父の顔が、穏やかな母の顔が、頭の奥で広がる波紋に掻き消される。


「お妃様は絶望しました。軟禁状態であってもなお、ほんの僅かに信じていた愛情はもう、どこにも無くなってしまったのです。受け入れてしまったのです。それはお妃様を支えていた均衡を、容易く崩していきました」


 耳を塞げと警鐘を鳴らす意識が、己の心に訴えた。それでも両手は少しも動かず、エカを凝視する瞳すら彷徨う事が叶わない。

 ソレが纏う空気が、音が、目を逸らすなと囁き掛けていた。


「お妃様は幼い我が子を抱きしめ、別れを告げました」


 父王を謀ったと謗られた、まだらの皮膚をした他民族の女性。

 切り取られた部屋で丸窓の向こうを眺め、何を思い如何様に過ごしたのだろう。

 生かすことと生きることは、違う。エカはそう言った。

 一心に受けるはずだった、この世の誰よりも幸せだと信じた、その愛と生きたのは、──。


「王妃はその後すぐ、自死しました」


 砂漠から吹く風が、強い冷気を運ぶ。凍えるような寒さは、眩んだ視界を無理矢理鮮明に引き戻す。ひどい目眩は一瞬にして砂に流され、エゼキエルは肌を刺す気配を感じ、咄嗟に地面を蹴ってソレから距離をとった。

 屈めていた上体を起こしたエカが、陰鬱と笑う。喉に絡む声は恐ろしいほど不安定で、男の声と女の声が、二重になって聞こえてきた。エゼキエルは見開いた目の横を、冷や汗が流れていく不快感に息をのむ。

 怯える意識に方が上下し、噛み合わない奥歯が音を立てた。


「王子様。貴方は自らの出自を悲観すべきではありません。ですが正しく知るべきです。貴方がお生まれになり国民は歓喜に震え、王は幸福に舞い、王妃は高らかに歌いました。けれどもその一方で、美しき月の女性は死を選び、目の前で母を失った我が子は闇に堕ちました。……そう。それが貴方の命を狙う、悲しき箱舟の正体なのです」


 テーブルや椅子が、不気味な音と共に、ローブの中へ吸い込まれた。合わせ目の奥で、母親を呼ぶ赤子に似た猫の鳴き声がする。

 男の手が、女の手が、子供の手が、動物の前足が、昆虫の節足が、暗闇の向こうからエゼキエルを手招いていた。

 ソレは紛れもなく、この世の理の外にいる、──バケモノだ。


「王子様、貴方はうら若き、正義の上に生まれました。しかしどうか、貴方がお生まれになった輝かしいその日、白む朝日の向こうへ月が消えたことを、そのお心にお留め置きください」


 ソレが一歩踏み出すたびに、氷を思わせる衝動が胸を貫く。

 腰にさしている護身用の小刀で、エゼキエルというこの身を、無様で卑しいこの喉を、掻き切りたくなるような暴力的な衝動だった。

 ソレの指先が、再び唇に触れる。かわいた吐息すら零すことを許さない威圧に、エゼキエルは瞠目したまま呼吸を止めた。


「貴方の生が、誰かの死であったこと。どうぞお心にお留め置きください」



 オウジサマ。



「何をしている!?」


 飛びかけた意識が、シェハの鋭い怒号で覚醒する。

 彼はエゼキエルとエカの間にその身を滑り込ませると、エゼキエルを背中で押し、ソレから距離をとった。宵闇を吹きすさぶ砂塵は、琥珀色の閃光を幾重にも辿り、二人を守る壁となって空中を取り巻く。


「……何をしている」


 剣呑にエカを睨んだシェハが、今度は低く問いかけた。エカは一瞬で纏う空気を柔和な物へ変化させると、芝居がかった動作で辞儀をし、両手を顔の前へ掲げ降参の意思を示しながら、数歩、背後へ後退した。


「申し訳ございません。少し王子様とお話を」

「話すだけで、なんでこんな状況になってる? こいつに何を話した」

「それは私が代弁できる事柄ではございません。……王子様。有意義な時間を過ごせましたね。さぁ宿に戻りましょう。お体をお休めください。明日までどうぞ、ごゆるりと」


 エカはそう言って気配だけで笑い、シェハとエゼキエルの横を通り抜けて優雅に歩いて行く。

 警戒を解かずに睨んでいたシェハは、後ろ姿が視界からとおのいた事を確認すると、肩の力を抜いて息を吐き出した。

 片手で髪を掻き乱し、高ぶった気持ちを落ち着かせつつ。巻き上がっていた砂を鎮めながらエゼキエルへ振り返る。


「あんなヤツとサシで話すヤツがいるか馬鹿!! 刺客だったらどうするつもりで、……おい、どうした?」


 叱責する声が、上手く頭に入ってこない。エゼキエルは蒼白な顔をしたまま地面を見つめた。唇が震え、酸素を取り込もうとしている肺が苦しい。込み上げるのが怒りなのか、涙なのか、それすら定かではなかった。

 記憶の中で父と母の顔が、めまぐるしく点滅を繰り返す。吐きそうだった。この感情ごと全て、自らの出自と共に押し流したいほどに。


「どうしたんですか、王子さま!!」

「……エゼキエル王子?」


 シェハを追いかけてきたのだろう。後ろからベリカとカスティの声が聞こえる。名を呼ばれて反射的に振り返り、カスティの困惑を帯びた双眸と交差した。

 暁へ上っていく太陽のように、鮮明な瞳に感情が吸い込まれ、エゼキエルは掠れた息を吐く。


「……私は貴女に、殺されるべきだったのだろうか」



 

 

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