第四章

第23話





 エゼキエルは矢筒を背負い直すと、グローブを手首まで引き下げ、廃屋の陰から陽の下へ歩み出た。

 夕日を浴びる一帯は懐かしさすら感じる橙色に覆われ、瓦礫が残る広場に集まる子供たちの笑い声を反響していた。

 子供たちの輪の中心でエカとサプタが、魔法を使用した遊戯を披露している。そこに近づいていくと、エカが剥製の顔を上げた。ソレは胸に手を当てて軽く会釈し、己の弟子に呼びかけて、子供たちと帰路につくよう指示を出す。

 サプタは愛らしい声で返事をすると、子供たちを先導し、その場を離れていった。

 風に乗って砂が舞い、エゼキエルはやや不明瞭な視界のまま、エカの前に立つ。ソレは再度、今度は恭しく頭を下げて、エゼキエルを見下ろした。


「これはこれは、王子様。如何されましたか」

「……貴方と話がしたく参りました。……私を第二王子だと知っている理由を、お聞かせ願えませんか」


 緊張を帯びた声音が、砂の音に混じる。エカは一呼吸置いた後、小さく笑って踵を返した。


「夜に向かう砂漠は冷えましょう。さぁ、どうぞこちらへ」


 軽やかな足取りで歩き出し、ソレは廃屋の中に入っていく。エゼキエルは唾を飲み込んで乾いた口内を湿らせ、意を決してその背中を追いかけた。

 壊れた門を潜り中に入れば、エカがローブの裾を広げつつ指を鳴らす。いっそ愉快なほど軽快な破裂音が響き渡り、品の良いテーブルと椅子、ティーセットが出現して、一人でに注がれた紅茶が静謐な香りを漂わせた。


「どうぞお掛けください」


 エゼキエルは軽く引かれた椅子に腰を下ろす。暗がりの廃墟に不釣り合いな、白く美しいカップが微かな音を立てた。エカもエゼキエルが座ったことを確認してから、自身も椅子を引いて腰を落ち着かせる。

 カスティより背の高い、表情のない、アリクイの剥製を頭部とするソレが、優雅な動作でティーカップを持ち上げた。何かが擦れるような音がする。布や糸を巻くに似た不思議な音が鳴り止めば、ソーサーの上に戻されたカップの中で、三分の二ほどの量になった紅茶が揺れた。


「私は子供が好きでして。祝いの席にこっそり隠れ、新しい命の誕生を祝うことが、一つの楽しみなのです。……私は愛する人と、子を成せませんから」

「……」


 エカは白手袋をした指先で、テーブルをなぞる。その声はまるで夜を告げる梟のように、落ち着き払った声で続きを謳う。


「一つ、昔話と参りましょう。……昔々、ある都に、勇敢な王様と、決して国民に顔を見せないお妃様がおりました。お妃様は病を患っておりまして、肌にまだらな模様があり、それを隠すために人前へ出ることを避けていたのです」


 エゼキエルは胡乱な感情を隠せず、えかを見上げる。エゼキエルの母は病など患っていなかった。父と共に積極的に公務へ参加し、周辺国との関係も良好であったはずである。

 僅かに頭を過った疑問を知ってか知らずか、ソレは薄っすらと笑う気配だけを残し、テーブルの上で両の指を組む。白手袋には細かい皺が、幾重にも重なって見えた。


「ある日、お妃様はその身に、輝かしい命を授かりました。王様は大層御喜びになり、すぐに祝福の準備に取り掛かろうとします。けれどもお妃様は、どうか我が子が生まれてくるまで待ってほしい。そう王様に願ったのです」


 廃屋の壊れた天井から差し込む夕日が、徐々に藍色を濃くしていく。ひんやりと冷たい空気が周囲に漂い始め、エゼキエルの目前に置かれたままの紅茶が、次第に温度を失っていった。


「王様は考えました。妻は生まれてくる我が子に、自身の病が遺伝していないか、不安に思っているのだろうと。その不安を取り除くのが、夫である自分の役目だと。王様はお妃様の頼みを受け入れ、腹心のみ集まる祝いの席を準備させて、我が子の誕生を心待ちにしていました」


 エゼキエルの脳内には、子煩悩であった父の顔が浮かぶ。エゼキエル自身も、多くの愛情を与えられて育ってきた。昔語りに登場する我が子、──兄の事も、大切に思っていた事だろう。

 エカの話ぶりから察するに、自分と兄は異母兄弟なのだろう。病気が遺伝したのなら、兄が産まれたばかりで亡くなったというのも頷ける。そしてエゼキエルが記憶している限り、異母の面影がまったく存在しないのもまた、産後の経過が悪かったに違いない。

 しかしそれなら何故、両親は黙っていたのだろう。

 テーブルを見つめて考え込んでいたエゼキエルの前で、エカはカップを持ち上げ一息つく。再び糸が巻くような音がし、カップの中身は空になった。そのまま空のカップを覗き込んだ後、静かにソーサーへ戻す。


「そしてある、涼やかな風が吹く吉日。待望の男の子が誕生しました」


 喜ばしい出来事のはずなのに、エカの声音に微かな影が落ちる。

 一瞬、視線が揺れうごいたエゼキエルに、エカは普段の快活で抑揚ある唄声を潜め、酷く単調な声で囁いた。


「祝福と幸福に溢れたその瞬間。王様は気がついてしまったのです。……我が子の肌が、健康的な小麦色であることを。その髪が夜空を溶かし込んだように、艶やかな黒であることを」


 動揺して言葉を失ったエゼキエルは、思わず椅子を蹴って立ち上がる。衝撃でカップが倒れて紅茶が溢れ、白いテーブルクロスに歪な汚れを飛び散らした。

 エカは突然の変わりように驚いた様子もなく、指を鳴らして紙ナプキンを出現させると、カップに片手を伸ばして紅茶を拭き取る。


「……もし産まれてきた王子が、小麦色の肌だと知ったら、国民は何を思うでしょう。病気だと、納得するのでしょうか。きっとお妃様の本当の危惧と同じく、別の可能性を考えるはずです」


 エゼキエルは眉間に深い皺を刻んで唇を噛み締めた。エカの言う通りだ。浅黒い肌に黒い髪と聞いて、何かの病気かと思う人間は、少なくともあの国には居ないだろう。


「……他民族の女性、だったのか」


 エゼキエルの故郷ケシェトは、外交的で栄えた国であったが、権力の保持と言う面では非常に保守的な国であった。

 王族は特に血筋を重要視されていて、他民族の血を入れる事を良しとしていない。国民にすら当たり前の価値観として行き渡っている。エゼキエル自身、国を失い自分の意志で各国に出向くようになるまでは、父王に教育された通り、厳格にその思想を重んじていた。

 エゼキエルはテーブルに両手をついて細い呼吸を繰り返すと、苦い感情を隠せずエカに視線を戻す。


「その人は、父を騙していたのか?」


 もし本当に他民族の子供が生まれたのなら、国として一大事だ。色事に狂った王として、求心力や信頼も失墜しかねない。


「……王様もお妃様に、そう叫びました」


 エカはティーポットを片手で持ち上げると、もう片方の手で蓋を押さえながら、己のカップに紅茶を注ぎ入れる。もはや冷めた紅茶は、かろうじて湯気を燻らせるだけだ。茶葉に浸かりすぎた液体が、心情を表すように左右に揺れる。


「どのように王様とお妃様が出会ったのか、昔話では知る故もありません。けれども二人が育んだ愛はそこで全て、偽りだと決めつけられてしまったのです」

「…………そうかもしれない。我が国は、そこに関してだけは、……どうしても前に進めなかったから」

「苛烈ですよねぇ。男女が愛し合った顛末を、誰も赦さないなど。私では到底、口に出来ない言葉です。私はそういったご事情に、そもそも疎いですしね」


 エカは嘆息混じりに呟いて、再びエゼキエルに椅子を勧める。エゼキエルは意識して深呼吸し、ゆっくりと座席に着席した。

 太陽が地平線の向こうへ消えかけている廃屋は、気がつくと随分、暗闇が迫っている。指を鳴らしたエカの前に、青銅色のランタンが出現し、同じく宙を漂ったマッチ箱を手に取ってマッチを擦った。

 芯に火が灯されたランタンは、現世を曖昧にする光源として、静かに空間を照らし出す。


「さて、昔話を続けましょう。怒り狂う王様は、しかし冷静になりました。いいえむしろ、恐れ慄きました。腹心の臣下たちに、この事実が伝わってしまったのです」


 王族として事が大きくなる前に収束させたい。父王は恐らくそう考えた。


「王様は必死に考え、赤子に祝福を授けにきていた創造主に、頭を下げました。全員でなくてもいい。どうか彼らの記憶を消してくれないか、と」

「記憶を……」

「創造主はある条件と引き換えに、その願いを聞き入れました。恐らく、母子の安全を考えると、聞き入れざるを得なかったのでしょう。創造主は己の手を離れた事象に、過干渉できませんから。……創造主が提示した条件は、『母子の衣食住を保証し、生かすこと』でした」


 エカの意識がランタンに移った。暗くなった廃屋を照らす光に、僅かな羽虫が集まってきている。耳には微かな砂塵が舞う音が聞こえた。昼間の暑さが嘘と言わんばかりに低下し始める外気に、吐き出す息は白く烟る。


「……しかし創造主は、言葉の選択を誤ってしまったのです」

 沈んだ声が耳朶を震わせ、エゼキエルは双眸を細めた。エカはランタンの橙色に照らされながら、多くの人々が忘れた記憶を懐かしむように、一瞬だけ押し黙る。


「『生かすこと』と『生きることは』、よく似ていますが違うのです」

 

 

 

 

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