第22話
◇ ◇ ◇
「こちらの街で、一度宿を取りましょう」
エカはそう言って、荷車に吹き込んでくる風を凌いでいた布を捲り上げた。
キャラバンは中継地点となる街へ到着したようだ。人口が少なく、住民から選出された代表者が統治する街は、砂漠のオアシスとして重宝され、沢山の旅人や商人で賑わっている。
カスティは西へ太陽がやや傾いた空を見上げ、僅かに目を細めた。
物資の調達も含めて早めに宿泊し、出立は明日と言うことで、ベリカが他商人と話をつけている。今日はもう、明日の朝まで自由時間だ。荷車やラクダが盗まれないよう、エカのローブの中へ吸い込まれていく瞬間を目撃し、ベリカが悲鳴を飲み込んでシェハにしがみ付いていた。
片手を額に当てて、思わず溜め息が漏れる。あの後すぐにベリカから改めて謝罪があったが、カスティの心は晴れないままだ。
どうしても嫌な感情が胸に渦巻いている。商人である彼女に最終的な責がないのだとしても、感情に理性が追いついていなかった。ベリカが振りまく笑顔を見るたびに、激しく非難してしまいそうな己に嫌気が差す。
彼女が香木を売らなければ、カスティとシェハは争いに巻き込まれなかった。しかしそれも、かもしれない、という後付けに過ぎない。
我が子の命運を選択したのは自分自身だ。分かっているはずなのに。
「カスティ」
背後からエゼキエルの声がして、振り返る。彼は困ったように眉を下げ、彼女を手招いた。
どうしたのかと側に近寄れば、エカが剥製の被り物を撫でていた。
「申し訳ありません。この大所帯で部屋を二部屋しか用意できず」
「部屋割りをどうしたものかと思いまして」
ソレの言葉を引き継いだエゼキエルに、カスティは首を傾げて声を発しかけ、そうか、と納得し眉を下げた。
おそらく彼はカスティとベリカを慮ってくれているのだろう。
彼女が良ければエカとサプタと共に、と進言しかけると、シェハが先に口を開いた。
「おまえが一緒の部屋に行け」
「っわ、わたしが?」
我が子の命令に面食らい、一瞬反応が遅れる。
自分は彼女に敵意を向けてしまったのだ。冗談ではない。ベリカとてこんな化け物と同室など願い下げだろう。
思わず視線を向けると、ベリカがキョトンとした顔でシェハを見た。
「じゃあ、カスティさんとあたしで決まりね!」
特に無問題だと言わんばかりの明るい声に、エカとサプタも同意して部屋に向かってしまう。
助けを求めてシェハが首に巻く布を掴むが、薄情な息子は片手でカスティの手を払いのけ、エゼキエルの腕を掴んで行ってしまった。
「あたしたちも行きましょ」
硬直するカスティを見上げ、ベリカが笑いかける。その表情に邪気や怯えもないことが、無性に不安を煽り仕方がなかった
街でも評判だという宿は、確かに良い内装だった。
窓には日差しを遮る板が張り出し、宿泊客用のリネンも清潔だ。入浴設備も簡易なものだがあり、ベリカが確認すると湯も出るという。
「良い部屋ねぇ。あたし一人だと、こんな上等な部屋には泊まれないから、役得だわ」
さっそく湯を浴びて付着した砂を落とし、衣服も着替えて上機嫌で髪を乾かしていたベリカが、鼻歌交じりにそう言ってベッドに腰を下ろした。カスティは部屋の隅へ木椅子を移動させ、杖を側に立てかけながら、居心地の悪さに視線を彷徨わせる。
どうして彼女はこれほどまで普通なのだろう。カスティに対してあからさまな態度をとった方が、ベリカ本人も楽だろうに。
「……ベリカさんは、わたしが怖くないの?」
「え? 怖いけど」
さらりと白状された胸の内に、口を半開きにして固まった。ベリカは濡れた髪をタオルで拭きつつ、窓の外を見つめている。しかしカスティから返答が無いことを不審に思ったのか、目を瞬かせて顔を合わせてきた。
「どうかした?」
「ど、……どうかした、じゃないわ。怖いなら、どうして……」
「だってこの先も一緒にいるのに、怖いばかりじゃどうしようもないじゃない。それにカスティさんがあたしに怒るのは、正しいことでしょう? あたしが逃げ腰でどうするの」
シェハからある程度の事情は聞いたと言う彼女は、再び窓の外に視線を向ける。指先が髪をすくたびに、外から差し込む太陽光に照らされ輝いて見えた。
カスティは返答に窮し押し黙る。気丈に振る舞っているだで恐ろしいと言うなら、エゼキエルたちにそう進言するべきだ。少なくとも自分のような化け物と、密室になる危険性は避けられただろう。
「……正直に言うと、あたしの母さんの方が怖いわ」
「え?」
「もしあたしの母さんが、カスティさんの立場だったら、問答無用でゲンコツよ? 本当に痛いんだからね? か弱い娘の頭なんて、どーとも思ってないんだから! こうよ? こう!」
母親の真似らしく、鬼のような形相で空中を殴ったベリカは、直ぐに苦笑して視線を床まで下げた。髪の束を捻って頭上で結び、髪留めをさして固定し、頬についた水気をタオルで拭う。
そうして改めてカスティを見やり、八の字に眉を下げて微笑んだ。
「でも、あたしが勝手にカスティさんから逃げないって、決めただけ。カスティさんは、自分の心に素直でいいんだからね」
カスティは今度こそ、二の句が継げずに呼吸を飲み込む。
「あたし、恋人のご両親に、すっごい嫌われてるの。だからあんたも無理して、あたしの事、好きなる必要なんてないからね」
風に乗って窓を叩く砂に紛れるように、ベリカが小声で呟いた。
彼女は両足を胸元に引き寄せてベッドに乗り上げ、膝を抱えて背筋を丸める。優しい双眸がカスティに届き、目尻が和らいだ。
嫌われて当然だとする響きが、言葉の端から伝わってくる。カスティはマントを握りしめ、視界から逃れるべく俯いた。これほど優しく、穏やかに、嫌いになって良いなど言われたのは初めてだった。
衝撃を受けた胸が、音もしない心が騒めいている。
ベリカの想いはカスティと同じだった。自分は誰かに対し無関心でいる事はないけれど、自分の事は距離を置いて良い。捨て置いて構わない。事実その方が許されるより楽なのだ。許されてしまえば、いずれ訪れる離別の時を、生涯怯えて過ごさねばならないから。
「……好きか、嫌いかは、分からないわ」
無性に腹立たしかった。
己の言葉が己に返ってきた事が、突き放される身になることが、──いつまでも逃げ続ける、自分自身が。
「憎いか許せるかも、まだ、分からない。……でも、このままではいけないと、……そう思うわ」
カスティは答えを探せないまま、床を見つめて己の意思を紡いでいく。
この砂漠を縦断するまで、昼夜を共にする仲だ。いつまでも歪み合うより、妥協点を見つけて歩み寄る方が賢明なのだろう。
もし、を望んでしまった以上、ベリカの行いを許すことは出来ない。しかしカスティの心境を、文字通り鏡のように映す彼女を、邪険には出来ないのだ。
迷いつつ言葉にすれば、ベリカはやはり目を丸くした後、指先で頬を掻いて視線を逸らす。目尻には確かに、太陽を反射する光があった。
「……カスティさんは、優しいのね」
ポツリと溢れた声に涙が滲む。頬に触れていた指が目元を撫で、そのまま引き寄せていた膝に顔を埋めてしまった。
訪れた静けさに時折、鼻を啜る音が混じる。
嫌味もなく焦燥もない、ただ穏やかな時間だった。
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