第20話



「ベリカさん。昼間はシェハが失礼いたしました」


 白い月が空へ昇り始め、数刻が経過した頃。

 キャラバンはオアシスへ向かう途中の砂上で留まり、夜を越す準備を始めていた。建造物があったらしき石垣を風除けに、商人たちがラクダを休め、夕食をとっている。

 壺を抱えて石垣の一つに腰を下ろしていたベリカに、エゼキエルは長いローブから顔を出しつつ、彼女の背中へ声をかけた。ベリカは慌てた様子で石垣を飛び降り、降り積もった砂を軽く払って、エゼキエルへ場所を譲る。


「いえいえ! 王子さまは何も! ささ、どうぞ座ってください」

「そのように畏まらずとも」

「いいえそんな! あたしは普通の商人ですし、恐れ多いですから」


 ベリカは商人として、後々大口客になるかもしれない王子を、無碍に出来ないのだろう。エゼキエルとしては旅仲間の気持ちであったが、彼女の気遣いを汲み、礼を述べて腰を下ろした。


「あたしもちょっと、頭にきちゃって。すみませんでした。後であのお兄さんに謝っときます」


 月の光が注ぐ砂漠は、日中とは違う顔を見せる。そのせいか、ベリカの表情に落ちる影に、エゼキエルは一呼吸置くと、隣へ座るよう石垣を軽く叩いた。

 ベリカは目を瞬かせ、抱える壺に視線を落としてから、頭を下げて隣に腰を落ち着かせる。

 静かな夜風が吹き抜けた。昼間の熱波が嘘のように、次第に冷える外気が息を白く烟らせる。昼間は比較的軽装であったベリカも今は、厚手の衣服に身を包んでいた。

 背後で歓談する商人たちの声が、微かに聞こえ、エゼキエルは双眸を細める。


「……間違っていたら、申し訳ないのですが」

「? はい、なんでしょう?」

「ベリカさんは、婚約されていますよね?」


 確信めいた声音でそう言えば、彼女は呆気に取られて口を開けた後、みるみる顔を赤らめ飛び上がった。


「えっ! えええっ!? ど、どうしてそれを!? あたし、婚約指輪してませんよ!?」


 自身の左手を胸の前に引き寄せ、素っ頓狂に叫んだベリカに、エゼキエルは表情を綻ばせる。

 昼間、座っていた絨毯から香った、柔らかく甘い花の匂い。全く同じではないものの、以前、父王と共に参列した他国の婚約式で香っていた物と、よく似ていたのだ。

 そこは婚約の際、生家で育てた香木を使い香油を精製し、装飾が施された薄焼きの壺に納めて、婚約者同士送り合う習わしがある国であった。

 ベリカにその話を聞かせれば、彼女は頷いて、自らの左手を見下ろした。


「その通りです。王子さまが行った国は、あたしの故郷の隣ですね。周辺国はその風習が統一であるんです。たぶん、絨毯に染み付いていた香りは、あたしが婚約者に贈ったものですね」

「そうなのですか」

「はい。彼は他国の人で、そういった風習はなくて。……でも、代わりに渡されたのが、この子なんです」


 少しささくれた、けれどもしなやかなベリカの指が、抱えている壺を撫でる。

 中に眠っているであろう精霊の子を起こさぬよう、母親のような眼差しであった。


「あたしの婚約者は、国の中でも立場が上な人で。この子もどこかの国に仕事で行ったときに、召喚士に頼んで召喚士てもらったんだそうです。あたしが贈った香りの代わりに、あたしを守ってくれるようにって。……確かに大した事、できないし、弱いけど、……あたしにとって何よりも、大事な子なんです」


 月光に映えるエメラルドの瞳が、穏やかな砂漠の白さを反射する。美しい横顔からは、彼女と婚約者の深い繋がりが垣間見えた。

 エゼキエルは眉を下げて頷き、同じく壺を見つめる。

 暫く無言で風の音を聞いていれば、彼女は気恥ずかしげに笑い、赤い顔を片手であおいだ。


「な、なんか恥ずかしいわね! この話はおしまい! あっ、そうだ、その香木なんですけど、あたしの故郷の特産品でもあるんです」


 石垣を飛び降りたベリカは、壺を砂の上に置くとローブを捲り上げ、腰元から手の平ほどの袋を取り出した。

 微かに昼間と同じ香りが漂い、彼女は袋の紐を解いてエゼキエルに中を見せる。そこには小枝が一本入っていて、この枝に直接火を灯すことで、香りが広がるのだと説明した。

 婚約時に贈る香はこれに草花を混ぜ込み、粉末状にするのだという。


「王子さまには特別に、タダで一つお渡ししちゃいます。気に入ったら商談の方、よろしくお願いしますね?」

「ありがとうございます」


 甘い中にも少し苦味のある香りが鼻腔をくすぐり、エゼキエルが再びベリカに視線を向けた時だった。

 彼女の目が、エゼキエルを通り越し背後に注がれている。どうかしたのかと振り返ると、険しい顔のカスティが立っていた。

 カスティはエゼキエルを手招き、しかし一瞥もくれる事なく、ベリカを視界に入れたまま眉を寄せる。


「……王子。その袋を捨てて、こちらへ」

「カスティ、どうし……」

「こちらへ」


 いつもより声が固い。

 ベリカが困惑気味に眉を下げ、壺を抱え直す。

 カスティの態度はけして威圧的ではないものの、ベリカに対する敵意が薄っすらと垣間見えていた。

 昼間からベリカを見つめる彼女の瞳は、どこか険悪な物だった。特に無礼を働いた訳でも、それほど密な接点があった訳でもない。それなのに何故と、疑問だけが先行する。

 エゼキエルは横目にベリカの様子を窺った後、石垣から降りて、カスティの視線から庇うように対角線上に進み出た。


「カスティ、落ち着いてくれ。いったいどうしたんだ」

「……王子。その木は危険な物です。どうかそれを捨てて、こちらへ」

「危険な物……?」


 エゼキエルが袋に目を落として振り返ると、ベリカが真っ青な顔で一歩、後退する。引き結ばれた唇は白に変色して戦慄き、吊り上がった眉は徐々に下がって、泣き出す寸前に表情を歪めた。


「…………危険、なんかじゃないわ」

「その香木は、『空飛ぶ絨毯』に使われる物でしょう?」


 カスティの静かな声が、聞き慣れない単語を放つ。彼女は呼吸に感情を逃し、足音も少なく近づいてきた。


「……持っている荷物を見る限り、そう売れている印象は受けなかったわ。それなのに、荷台やラクダを購入する費用を、どうやって稼いでいるのか、疑問だった」


 隣に来たカスティは、エゼキエルの片手に握られている袋を押さえ、やんわりと指を解いて取り上げる。そして袋の口をキツく縛り直せば、エゼキエルを己の背後へ引き寄せた。


「ベリカさん。あなたはこれで、資金を得ていたのね」


 ベリカから答える声はなかった。否、沈黙こそ返答なのだろう。

 エゼキエルが顔を向けると、彼女は酷く焦燥した顔つきで俯いている。外界の異変を感じ取ったのか、壺の中から顔を見せた守護精霊が、心配そうにベリカを見上げた。


「エゼキエル王子。これは、『空飛ぶ絨毯』と名のついた魔法薬に使われる、材料の一種です」

「魔法薬……」


 特殊な精製方法により魔力がこもった薬の事で、その難しさから秘薬とも称される。使用される材料も、希少価値が高い物ばかりだ。もしカスティの言葉が真実なら、この小枝も相応の値打ちがある逸品だろう。


「『空飛ぶ絨毯』は、幻覚を操る魔法薬です。香木そのものに害はありませんが、その魔法薬は主に戦場で使われるもの」

「戦場で……!?」


 頷いたカスティは、手の平に収まっていた袋を、ベリカに向けて放り投げる。

 精霊の子共が慌てて体躯を伸ばし、口に咥えて掴み取るが、ベリカは一言も発する事なくカスティを見つめていた。

 魔法薬『空飛ぶ絨毯』は、自国の兵士に幻覚を見せ、敵国への戦意を助長させる目的で使用するという。もうこの世には居ない親族の蘇りや、生きている人間の死の偽装、そこに存在しない相手へ、敵襲をかけられたと言う強迫観念を抱かせるなど、効果は様々だ。

 それを全て敵国の目論見だと思わせ、劣勢に立たされた自国兵を鼓舞する目的で作られる。

 カスティが以前、傭兵として雇用された国でも使用されたと、彼女は目元を歪め呟いた。


「……しょ、商売道具よ。あんたに関係ないでしょ」


 無言で話を聞いていたベリカが、搾り出すような声で反論する。


「だ、だいたい、あんたと言う通り、枝にはなんにも害がないわ! あたしはただ、故郷の特産品を売り込んでいるだけ。それをどう使おうが、あたしには関係ないじゃない! そんなの買い手の勝手でしょ!?」

「ええ、そうだわ。あなたの売り物にわたし達は関与しない。あなたの商品だもの好きにして。だけどそんな戦争の道具を、王子と同じ場所で、あたかも綺麗な物のように扱わないで!!」


 怒鳴るカスティに気押されて、ベリカは更に数歩、後ずさった。

 エゼキエルは己を庇うカスティを見上げ、僅かに見える瞳が、苛烈に輝いているのを知り、細く息を吐く。

 彼女は騎士であり、傭兵だ。前世でも今世でも、多くの争いを見てきたのだろう。このような魔法薬に苦しめられ、それでも戦地に向かわざるを得ない同胞達を、多く見てきたのだろう。

 その度に、己の無力感を噛み締め、悲しみを抱えてきたと言うなら、戦争の道具を作る小さな香木に対し、嫌悪を抱くのは不思議なことではなかった。


「……そ、それがなによ」


 弱々しいベリカの声が空気を震わせる。

 彼女は瞳に溜まった涙が溢れないよう、瞬きを堪えて、強い眼差しでカスティを睨んだ。


「あ、あたしには、金が必要なの。そんな綺麗事言ってたら、何もできない! 綺麗じゃないなら、汚くたって、しょうがないじゃない! あたしは金持ちになって、自分の店を持って、あの人に相応しい女になるんだから!」


 涙が散って砂塵に吸い込まれていく。

 エゼキエルは瞠目し、すぐに眉尻を下げ、カスティの背中を優しく叩いた。驚いて振り返った彼女と視線を交え、緩慢な動作で左右に首を振る。


「王子」


 咎める響きを持ってカスティが呼ぶが、一歩踏み出してベリカに近づいた。

 大粒の涙を流しローブの裾で涙を拭う彼女を、上体を屈めて下から覗き込む。


「ベリカさん。ご自身の大切なものを、貴女が卑下してはいけません」


 大きく見開かれた瞳に、エゼキエルの顔が映り込んだ。

 少し濁りがある、けれども強い意志を感じさせる双眸だ。おそらく彼女の言葉に嘘はない。ベリカには資金が必要で、一刻も早く一人前と認められ、自身の店を持ち、愛する人と共にありたいと望む理由があるのだ。


「……いいですか、ベリカさん。貴女がこの香木を、卑下してはいけない」


 壺を支える両手に自らの手を重ね、エゼキエルは穏やかに目尻を下げる。

 カスティの怒りは理解できる。それがどのような経緯であっても、戦術に組み込まれれば悪へ変わる代物だ。ベリカの反応から彼女自身、上客が香木を何に使用するのか知っていて、しかし立ち止まる場所を見失っているのだろう。本来なら気がついた時点で、危険から身を引くべきだったのだ。

 それでもこの香木が風習として、大切な愛を伝える香りであったことに、相違などないはずである。


「これは婚約者に贈った香りなのでしょう? その思いは、綺麗で真っ直ぐな物ではないのですか。……貴女が婚約者との絆を誇るなら、貴女自身が汚い物だと卑下するべきではない」


 ボロボロと溢れる涙が、ローブの襟元にシミを作っていく。震えた指先は確かにエゼキエルへ伝わって、歪んだ双眸が喉を震わせる。

 零れ落ちそうなエメラルドは助けを求めていて、エゼキエルは片手を伸ばすと、赤毛の髪を優しく撫でつけた。







 

 

 

 

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