第18話



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 旅立ちの朝は、いつにも増して暑い晴天だった。

 カスティは素肌が見えぬように衣服を着込み、肩から胸にかけて、布を押さえている紐を結び直しつつ、遠方を見つめているエゼキエルに視線を向ける。

 水面を称えたような瞳が、真っ直ぐに前を向いていた。意志の固い双眸だ。

 商人のキャラバンに同行するとは言え、長い砂漠の旅は、森林と共に生きてきた彼の体を、少なからず蝕むだろう。途中でオアシスに立ち寄るらしいが、それまでは自分が彼を守らなくては。

 口を開きかけては閉じる仕草を繰り返し、カスティは顔を逸らして、荷台の準備をしているエカを一瞥する。

 ソレは商人から借り受けた、滑車付きの大きな荷台へラクダを繋ぎながら、他の団員たちへ指示を出していた。

 胡散臭いことこの上ないが、あの不可解な男が旅の鍵になる。

 エゼキエルの身内しか知らない情報を持ち、奇抜な魔法で周囲を翻弄する、どの種族かも分からない異形。もし意図的に砂漠の船を難破させようものなら、対処しなければならない。


「王子様と不思議なロガモール様」


 不意に背後から声をかけられ、カスティは目を瞬かせて振り返った。

 見ると、弟子と紹介された幼い少年が、にこやかな顔でエゼキエルとカスティに笑いかける。


「大丈夫ですよ。野盗に襲われても助けられない、なんて師匠は言ってましたけど、ちゃんとみんなを守ってくれますから」


 パステルカラーの髪を揺らして断言する彼に、カスティと同じく瞠目したエゼキエルが、苦笑まじりに首を傾ける。


「ありがとうございます。ですが、そこまで甘える訳にはいきません」

「平気ですよ! 師匠はトゥラヤさんに心を預けているので、すっごく強いんです!」

「心を、ですか?」


 胸を張り、我が事のように自慢するサプタの言葉を反芻すれば、彼は穏やかな表情になり、師を見つめた。


「そうですよ。師匠が言ってたんです。誰かに心を預けると、すごく強くなるんだって。だからボクもいつか、この心を誰かに預けられるように、一人前になるんだ」


 サプタの美しいトパーズ色の瞳が、ラクダの近くにいるエカを映す。煌めく宝石に似た瞳は、師への畏敬の念と、明日への展望に溢れていた。

 自然と目線の先を追えば、ソレの傍に佇んでいる輪郭の曖昧なローブ姿の人物が、エカの心を預かっている存在なのだと察しがついた。


「……だから、ロガモールさんも強いんでしょう?」


 急に話を振られ、カスティは返事をし損ねてサプタを見下ろす。少年はキョトンとした顔で見上げ、屈託なく笑い自らの胸を指し示した。


「ロガモールさんも、誰かに心を預けているんでしょう?」


 心臓の音がしないから、とサプタは言う。

 彼は修行の一環として、常時魔法を張り巡らせているのだという。外見からは感じ取れない機微へ、即座に反応できるよう訓練していると言うのだ。

 カスティは曖昧に微笑み、自らの胸を見下ろした。


「物理的、ですね。……でも、……そうね……、心を預けていると言ったら、そうなのかしら……」

「そうとも。それが貴女の強さだ」


 尻すぼみになる彼女に、エゼキエルがすぐに応答する。顔を見ると柔和な瞳とかち合い、カスティは戸惑い気味に俯いた。

 ココロない化け物の心臓は、確かにシェハへ預けている。しかし自分の強さは生まれ持ったもので、痛みを感じないからこその無茶苦茶だ。サプタが目指すような美しい精神論では、決してない。


「だが、それなら私も、少しは強さを手に入れられているのだろうか」


 耳に入った言葉で我に返ったカスティは、両手を見下ろすエゼキエルに視線を向ける。彼は照れくさそうに笑って、指先で頬を掻いた。


「ほら、私の心は、カスティに渡しただろう?」


 一瞬、理解が追いつかず目を瞬かせ、次いで口を半開きにしたまま硬直する。



 ──この命は、お前に渡そう。



 獣人の国でカスティが、彼に近づいた目的を明かした夜。エゼキエルは確かにそう言った。あの晩に感じた風の匂いも、頭上を覆う星の瞬きも、今でも鮮明に思い出せる。

 あの夜を境にカスティの世界は、確実に色を変えつつあるのだろう。


「…………」


 なぜか、顔が熱かった。心臓のない胸が飛び上がって、土と砂で出来た身体の体温を上げている。ぽっかりと空いた空洞が切なく痛む気がして、カスティは意味もなく杖を握りしめた。

 幼い魔法使いが比喩する心と、自分たちが取り交わした心は、率直に言ってしまえばあまりに違う。

 それでもエゼキエルの心は今、カスティの中に、あるのだろうか。

 突然静止し、様子の変わったカスティに、エゼキエルとサプタが不思議そうな顔をしていた。ハッと気がついて首を振り、適当に話題を切り上げて顔を逸らす。

 居た堪れない恥ずかしさで、顔から火が噴きそうだ。カスティは軽く頭を下げてから、逃げるようにシェハの隣に移動する。

 荷造りの様子を仏頂面で睨んでいたシェハは、胡乱げに彼女を見上げ、目を眇めて眉を寄せた。


「なんだその顔」

「……わかりません」

「は?」


 ますます嫌そうな顔で不審がられるが、分からないのだから仕方がなかった。

 この感情の行く末を、カスティは経験したことがない。空洞を埋めようと彷徨う何かに、どのような名前をつけて良いのか、知る方法すら知らなかった。


「皆様! どうぞこちらへ!」


 荷造りを終えたエカが、周囲に声をかける。急足で集合すれば、魔法師団の座長は恭しくこうべを垂れた。


「それではこの度の航海、舵取りは弟子のサプタが、航海士はこのエカが務めさせて頂きます」

「よろしくお願いします!」


 エカの隣に並び立ち、サプタも師に倣って上体を屈める。

 後部の布が掛かった荷台に乗り込むよう、伝えられたその時、快活な声が聞こえて一行は振り返った。


「ちょっとなになに? 随分な連中ねぇ。あんた達があたしの同伴者?」


 年若い女性の声だ。砂漠をわたるに相応しい服装と、大きな荷物を難なく背負い、一つに束ねた豊かな赤毛を左右に揺らしながら、副座長と共に歩いてくる。

 大きなエメラルドの瞳がエカへ向いて、上から下まで眺めてから目を細めた。


「ふーん? あんたがドゥアウさんが言ってた、座長さん? あたしはベリカ。その荷車はあたしのだから、壊さないように……」

「ベリカ様! 素敵なお名前ですね!」


 言葉を続けようとした彼女に、サプタが顔を輝かせて詰め寄った。日焼けした肌が紅潮して色づき、トパーズの瞳が興奮で爛々と輝いている。

 突然の事態に、驚愕の声を上げたベリカが半歩身を引くと、すかさず両手を取って下から顔を覗き込んだ。


「こんな美しい瞳や、滑らかな肌の女性、ボクは出会ったことがありません! ベリカ様はもしかして砂漠の女神様ですか? それとも航海を惑わすセイレーン? それならぜひ、ボクだけを惑わしてください、美しい人……!」

「へ? え、ええ? うふふ、なぁに、そんなに褒めても何も出ないわよ」


 完全に気押されているベリカだが、言われた内容にまんざらでもないらしい。

 彼女は照れくさそうに耳を赤くしつつ、上機嫌でエゼキエル達にも視線を向けてきた。


「こんな良い子がいるなら、先に言ってよ。さ、出立するわよ! あんた達も早く乗って!」


 サプタと共に、エカが荷物を積み終えた荷台に向かう彼女へ、三人は呆気に取られた顔を見合わせる。

 移動手段を確保したとは聞いたが、まさか同じ荷車へ同伴者がいるとは初耳だった。

 シェハが眉を寄せて、魔法師団の座長と副座長を睨めば、彼らは苦笑交じりの気配で肩をすくめる。


「申し訳ありません。私の愛弟子は……少々、うら若き、花も恥じらう乙女に目がありませんで」

「そう言うことを言いたいんじゃねぇよ」

「この荷台の持ち主ですから、どうぞご容赦を。オアシスまでの道のりには詳しいそうですから、大丈夫ですよ」


 低く唸るシェハにも、座長はどこ吹く風だ。

 カスティは溜め息に似た息を吐き出し、口を開きかけるが、先に声を発したのはエゼキエルの方であった。


「砂漠に詳しい方なら安心ですね。我々も行こう、カスティ、シェハ」


 晴れやかな笑顔に、言いたいことを寸前で飲み込む。

 やはりこの王子は、楽観視が過ぎる。

 しかし眉間に指先を当てて押し黙るに留め、揚々と歩き出したエゼキエルに続き、カスティも足を踏み出した。 

 



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