第18話
◇ ◇ ◇
旅立ちの朝は、いつにも増して暑い晴天だった。
カスティは素肌が見えぬように衣服を着込み、肩から胸にかけて、布を押さえている紐を結び直しつつ、遠方を見つめているエゼキエルに視線を向ける。
水面を称えたような瞳が、真っ直ぐに前を向いていた。意志の固い双眸だ。
商人のキャラバンに同行するとは言え、長い砂漠の旅は、森林と共に生きてきた彼の体を、少なからず蝕むだろう。途中でオアシスに立ち寄るらしいが、それまでは自分が彼を守らなくては。
口を開きかけては閉じる仕草を繰り返し、カスティは顔を逸らして、荷台の準備をしているエカを一瞥する。
ソレは商人から借り受けた、滑車付きの大きな荷台へラクダを繋ぎながら、他の団員たちへ指示を出していた。
胡散臭いことこの上ないが、あの不可解な男が旅の鍵になる。
エゼキエルの身内しか知らない情報を持ち、奇抜な魔法で周囲を翻弄する、どの種族かも分からない異形。もし意図的に砂漠の船を難破させようものなら、対処しなければならない。
「王子様と不思議なロガモール様」
不意に背後から声をかけられ、カスティは目を瞬かせて振り返った。
見ると、弟子と紹介された幼い少年が、にこやかな顔でエゼキエルとカスティに笑いかける。
「大丈夫ですよ。野盗に襲われても助けられない、なんて師匠は言ってましたけど、ちゃんとみんなを守ってくれますから」
パステルカラーの髪を揺らして断言する彼に、カスティと同じく瞠目したエゼキエルが、苦笑まじりに首を傾ける。
「ありがとうございます。ですが、そこまで甘える訳にはいきません」
「平気ですよ! 師匠はトゥラヤさんに心を預けているので、すっごく強いんです!」
「心を、ですか?」
胸を張り、我が事のように自慢するサプタの言葉を反芻すれば、彼は穏やかな表情になり、師を見つめた。
「そうですよ。師匠が言ってたんです。誰かに心を預けると、すごく強くなるんだって。だからボクもいつか、この心を誰かに預けられるように、一人前になるんだ」
サプタの美しいトパーズ色の瞳が、ラクダの近くにいるエカを映す。煌めく宝石に似た瞳は、師への畏敬の念と、明日への展望に溢れていた。
自然と目線の先を追えば、ソレの傍に佇んでいる輪郭の曖昧なローブ姿の人物が、エカの心を預かっている存在なのだと察しがついた。
「……だから、ロガモールさんも強いんでしょう?」
急に話を振られ、カスティは返事をし損ねてサプタを見下ろす。少年はキョトンとした顔で見上げ、屈託なく笑い自らの胸を指し示した。
「ロガモールさんも、誰かに心を預けているんでしょう?」
心臓の音がしないから、とサプタは言う。
彼は修行の一環として、常時魔法を張り巡らせているのだという。外見からは感じ取れない機微へ、即座に反応できるよう訓練していると言うのだ。
カスティは曖昧に微笑み、自らの胸を見下ろした。
「物理的、ですね。……でも、……そうね……、心を預けていると言ったら、そうなのかしら……」
「そうとも。それが貴女の強さだ」
尻すぼみになる彼女に、エゼキエルがすぐに応答する。顔を見ると柔和な瞳とかち合い、カスティは戸惑い気味に俯いた。
ココロない化け物の心臓は、確かにシェハへ預けている。しかし自分の強さは生まれ持ったもので、痛みを感じないからこその無茶苦茶だ。サプタが目指すような美しい精神論では、決してない。
「だが、それなら私も、少しは強さを手に入れられているのだろうか」
耳に入った言葉で我に返ったカスティは、両手を見下ろすエゼキエルに視線を向ける。彼は照れくさそうに笑って、指先で頬を掻いた。
「ほら、私の心は、カスティに渡しただろう?」
一瞬、理解が追いつかず目を瞬かせ、次いで口を半開きにしたまま硬直する。
──この命は、お前に渡そう。
獣人の国でカスティが、彼に近づいた目的を明かした夜。エゼキエルは確かにそう言った。あの晩に感じた風の匂いも、頭上を覆う星の瞬きも、今でも鮮明に思い出せる。
あの夜を境にカスティの世界は、確実に色を変えつつあるのだろう。
「…………」
なぜか、顔が熱かった。心臓のない胸が飛び上がって、土と砂で出来た身体の体温を上げている。ぽっかりと空いた空洞が切なく痛む気がして、カスティは意味もなく杖を握りしめた。
幼い魔法使いが比喩する心と、自分たちが取り交わした心は、率直に言ってしまえばあまりに違う。
それでもエゼキエルの心は今、カスティの中に、あるのだろうか。
突然静止し、様子の変わったカスティに、エゼキエルとサプタが不思議そうな顔をしていた。ハッと気がついて首を振り、適当に話題を切り上げて顔を逸らす。
居た堪れない恥ずかしさで、顔から火が噴きそうだ。カスティは軽く頭を下げてから、逃げるようにシェハの隣に移動する。
荷造りの様子を仏頂面で睨んでいたシェハは、胡乱げに彼女を見上げ、目を眇めて眉を寄せた。
「なんだその顔」
「……わかりません」
「は?」
ますます嫌そうな顔で不審がられるが、分からないのだから仕方がなかった。
この感情の行く末を、カスティは経験したことがない。空洞を埋めようと彷徨う何かに、どのような名前をつけて良いのか、知る方法すら知らなかった。
「皆様! どうぞこちらへ!」
荷造りを終えたエカが、周囲に声をかける。急足で集合すれば、魔法師団の座長は恭しく
「それではこの度の航海、舵取りは弟子のサプタが、航海士はこのエカが務めさせて頂きます」
「よろしくお願いします!」
エカの隣に並び立ち、サプタも師に倣って上体を屈める。
後部の布が掛かった荷台に乗り込むよう、伝えられたその時、快活な声が聞こえて一行は振り返った。
「ちょっとなになに? 随分な連中ねぇ。あんた達があたしの同伴者?」
年若い女性の声だ。砂漠をわたるに相応しい服装と、大きな荷物を難なく背負い、一つに束ねた豊かな赤毛を左右に揺らしながら、副座長と共に歩いてくる。
大きなエメラルドの瞳がエカへ向いて、上から下まで眺めてから目を細めた。
「ふーん? あんたがドゥアウさんが言ってた、座長さん? あたしはベリカ。その荷車はあたしのだから、壊さないように……」
「ベリカ様! 素敵なお名前ですね!」
言葉を続けようとした彼女に、サプタが顔を輝かせて詰め寄った。日焼けした肌が紅潮して色づき、トパーズの瞳が興奮で爛々と輝いている。
突然の事態に、驚愕の声を上げたベリカが半歩身を引くと、すかさず両手を取って下から顔を覗き込んだ。
「こんな美しい瞳や、滑らかな肌の女性、ボクは出会ったことがありません! ベリカ様はもしかして砂漠の女神様ですか? それとも航海を惑わすセイレーン? それならぜひ、ボクだけを惑わしてください、美しい人……!」
「へ? え、ええ? うふふ、なぁに、そんなに褒めても何も出ないわよ」
完全に気押されているベリカだが、言われた内容にまんざらでもないらしい。
彼女は照れくさそうに耳を赤くしつつ、上機嫌でエゼキエル達にも視線を向けてきた。
「こんな良い子がいるなら、先に言ってよ。さ、出立するわよ! あんた達も早く乗って!」
サプタと共に、エカが荷物を積み終えた荷台に向かう彼女へ、三人は呆気に取られた顔を見合わせる。
移動手段を確保したとは聞いたが、まさか同じ荷車へ同伴者がいるとは初耳だった。
シェハが眉を寄せて、魔法師団の座長と副座長を睨めば、彼らは苦笑交じりの気配で肩をすくめる。
「申し訳ありません。私の愛弟子は……少々、うら若き、花も恥じらう乙女に目がありませんで」
「そう言うことを言いたいんじゃねぇよ」
「この荷台の持ち主ですから、どうぞご容赦を。オアシスまでの道のりには詳しいそうですから、大丈夫ですよ」
低く唸るシェハにも、座長はどこ吹く風だ。
カスティは溜め息に似た息を吐き出し、口を開きかけるが、先に声を発したのはエゼキエルの方であった。
「砂漠に詳しい方なら安心ですね。我々も行こう、カスティ、シェハ」
晴れやかな笑顔に、言いたいことを寸前で飲み込む。
やはりこの王子は、楽観視が過ぎる。
しかし眉間に指先を当てて押し黙るに留め、揚々と歩き出したエゼキエルに続き、カスティも足を踏み出した。
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