第14話




 灼熱の大地を思わせる、燃えるような緋色と金の衣装。真っ白な髪に豊かな口髭と、白目のない蛇のような瞳。年老いた風貌でありながらも、その肢体は逞しく、皺の刻まれた顔には優しげな微笑を浮かべた。

 その神格化した霊体は、カスティの頭を撫でると湖の上空へ飛んでいく。

 そして人々が指差すその先で、両手で筒を作ると、まるで楽器を吹くように息を吹きかけた。

 冬の寒さを一気に溶かす熱気が、空から湖に押し寄せる。驚いたジマが起き上がり、分厚い氷は音を立て、ひび割れた地面を潤す水へ変わり流れていく。

 水を被ったジマが、唖然として立ち上がり、空中へ飛び立った。

 全ての氷が水に変わったその時、周囲の歓声は悲鳴に変わる。

 氷によって止まっていた時間が流れでしたのだ。荒れた湖の水は雨の如く降り注ぎ、人々は濡れた四肢を引きずりながら、大混乱になっていた。


「……っ王子!」


 カスティの悲鳴を聞きながら、エゼキエルは着用する上着を脱ぎ捨て、最低限の身軽さになる。制止の声を振り切って走り出し、湖に飛び込んだ。

 水底に沈んでいる、ジマの“大切なもの”に、一刻でも早く彼女を会わせてやりたい。

 何年もたった一人、誰にも知られず立ち向かっていた、あの少女に。


「……!」


 心臓を鷲掴みにされる冷たさを耐えながら、エゼキエルは暗闇に潜っていく。思った以上に深い湖だ。流水に押しやられながら水底に辿り着き、僅かに口端から空気を溢して目を見開く。

 厚いダッフルコートに身を包み、栗毛の青年が身体を丸めて漂っていた。

 その両手には、ジマが言っていた魔法具のランプらしき物体を握りしめている。だが、この流水でやられたのだろう。持ち手以外が木っ端微塵になっていた。

 しかし青年に外相はなく、彼を取り巻く半透明な気泡の中で、ゆっくりと眠っている。

 気泡が形を変えて、同じく半透明な女性の姿になった。それは長身のカスティをゆうに超え、自身の身体へ青年を匿い、エゼキエルへも両手を差し出す。 

 皆底に笑い声がこだました。エゼキエルは身構える余裕もないまま、気泡の中に取り込まれて、そのまま水面に向かって移動していく。

 エゼキエルは驚いた衝撃で、溜め込んでいた空気を吐き出してしまうが、不思議と気泡の中は呼吸ができた。


「……貴女様は……」



『心配すんな、もう大丈夫だぜ』



「っ主よ、待っ」


 水飛沫を上げて水面を飛び出した。同時に気泡が弾け、エゼキエルと青年は地面に投げ出される。

 思わぬ事態に受け身も取れず転がったエゼキエルは、背中を強か打ちつけ咳き込んだ。


「エゼキエル王子!」


 走り寄ってきたカスティが、マントの留め具を外して、濡れた体にかぶせる。少しざらついた布の質感に触れ、どっと寒さを思い出して噛み合わない奥歯が鳴った。

 急激な体温の変化に、呼吸がついていかない。過呼吸を必死に押し留めていると、頬に暖い感触があり視線を上げた。

 先ほど氷を溶かした老人が、エゼキエルに向けて口角をつり上げる。


「案ずるな若人よ。わしに任せておれ」


 息を吸い込んだ瞬間、暖かな炎が身体を取り巻いた。

 それは家族で囲む暖炉のような、懐かしく愛おしい鼓動でエゼキエルの身体を暖め、同時に水滴を飛ばして乾いていく。


「……あ、りがとう、ございます」


 呆けた顔で礼を述べれば、その人は優しく笑って、エゼキエルの頭を撫でた。


「オリエン! オリエン!!」


 ジマの声が耳に入り、エゼキエルは共に地面へ投げ出され、仰向けで倒れている青年を見る。

 青年は小さく呻きながら目蓋を開き、焦点が定まらない様子で視線を彷徨わせた。そしてようやく傍で座り込むジマを見つけ、硬直する体を腕で支えながら起き上がった。


「……ジマ? どうし、た? こんなに怪我して、……」


 彼女の傷ついた衣服や腕に慌てながら、青年は控えめに腕を伸ばす。その仕草に感極まったかのように、ジマは泣きながら腕の中に飛び込んだ。


「じっ、じじじジマ!? ま、待っ、ダメだって! そんなにくっついたら、溶ける……!」

「いいの、いいの! あなたの腕の中なら、溶けても、痛くても、いいの……!」

 堪らず声を上げて泣き出した彼女に、青年は眉を下げて髪を撫でる。



 そこにいるのは創造主の第四女、冬の女神ではない、愛する人の目覚めを待ち続けた、ただ一人の少女であった。

 真っ赤な顔で狼狽し、それでも強く抱きしめる恋人に、いつまでも大切に愛される、普通の少女に他ならなかった。



 エゼキエルは心の底から、安堵の息を吐き出す。無事に再会できてよかった。

 カスティを見ると、彼女も幸福そうに二人を見つめ、エゼキエルの視線に気がついて目を瞬かせる。そして眉を下げ、はにかんだ。


「……カスティや」

「シェロール翁……」


 エゼキエルを支えながら立ち上がったカスティに、シェロールが声をかける。応える彼女の声が不安に揺れるのは、気のせいではないのだろう。

 寄り添うシェハと交互に見つめたあと、老人はにっこりと目を細め、カスティとシェハの額を鮮やかに張り飛ばした。

 突然の事態に思考が追いつかなかったエゼキエルは、え、と間の抜けた声を上げてその場に硬直する。

 よほどの衝撃だったのか二人は揃ってひっくり返り、悶絶していた。


「ふむ。これで良しとしてしんぜよう。内なる願い、またもや忘れたら承知せんぞ」


 軽く息をついて片手を振ったその人は、改めてエゼキエルに向き直ると、片手を胸に当ててこうべを垂れた。


「お初にお目にかかる、エゼキエル王子。わしはシェロール。サバ・シェロールだ」

「は、初めまして」

「お主に出会えたことを、創造主に感謝しよう。……わしの錠は、誰かを助けたいと信じる願いの鍵。お主の真っ直ぐな願いが、暗闇の向こうまで照らすことを、わしはずっと願っておる。……困った時は、いつでも呼びかけよ」


 嗄れているのに強さを併せ持つ、叙事詩を詠うその声は、エゼキエルの胸を暖める。今は亡き家族を思わせる、不思議な響きのある声だった。

 エゼキエルから離れ、地面に座り込んでいた二人をそれぞれ抱擁し、その人は大きく衣装を翻すと、蜃気楼のように消えていく。

 黙して見届けたエゼキエルは、シェハが鼻を啜った気配がして視線を向けた。彼は地面から腰を浮かせて立ち上がると、衣服についた汚れを払い落とし、空を見上げる。

 声をかけようと口を開いたところで、ジマと青年が近づいてくる。


「この街は、もう危ないわ。……兵士が来る前に、早く出て」

「お二人は……」

「わたしたちも、……もう行くから」

 

 オリエンに状況を説明しないと、と青年を見上げたジマは、そのまま濡れた瞳をカスティに向けた。

 そして冬の寒さを和らげる、日差しに似た温かさで、心の底から幸福な笑顔で、頭を下げる。


「……ありがとう。……本当に、ありがとう。……この恩に報い、創造主ロイエヒム・テーヴァの第四女、ジマの祝福を、あなたに授けるわ。……わたしのように、あなたが立ち止まった時、必ずあなたの力となりに、馳せ参じます」


 恋人たちは互いに顔を見合わせると微笑み、再度、深く頭を下げてその場を後にした。

 走り去っていく背中を見つめていれば、杖を頼りに立ち上がったカスティが、己の片手を見下ろす。


「……召喚、できたじゃないか」


 そう言いながら横目に見上げると、彼女は微かに頬を紅潮させながら瞳を揺らす。

 誰かを助けたいの願い信じる鍵。あの人の言葉が胸の中で響いた。エゼキエルは清々しい気分で頬を緩ませ、体が冷えぬよう、カスティのマントを引き寄せる。

 そして片手を彼女の背に添え、軽く叩いて鼓舞すると、カスティは目を瞬かせこちらを一瞥した。


「ほらやはり、貴方は化け物などではない」


 朗らかに笑えば、彼女は一拍置き、くしゃりと顔を歪める。

 昨晩見たシェハと同じ顔だ。泣きそうで泣けない、泣いてはいけないと己を律する、そんな顔だった。



 本当に親と子なのだな。



 エゼキエルは痛む胸に気が付かないふりをして、地面を踏みしめ踵を返した。






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