第38話
明るい夜はさらに更ける。
導かれた先のその舞台は、雲がなければ世界のすべてが見渡せそうな高さだった。しかし分厚い雲は視界の端々までを埋め尽くし、ただ月に照らされた薄い白ばかり。向こうの向こうの、そのまた向こうはわずかに丸みを帯びている。この世もまた、元いた世界と同じく丸いのだと大洋にはわかった。
元いた世界と違う生き物がいて、無から有を生み出す奇跡が容易く起きて、文字は違うのにけれど言葉は通じる。
ついにこの世界に呼び出されたすべての目的の場所へ立ちながら、そのちぐはぐさに大洋はすべて夢ではないかと今更己の正気を疑った。息苦しさも冷たさも確かに感じているのに、思考は霞がかってまったく現実味がない。達成感もない。
ぼんやりと立ち尽くす大洋を余所に少女は、呼吸を整えるより先に地面に膝を折った。その前には大洋の背丈と同じくらいの高さの粗末な石塔がある。ただ辺りに転がる石を積み重ねただけ、しかし明らかに自然にできたものではない。
「……これで、終わるんだね」
「はい」
「ここで祈りの儀式が終われば、僕は元の世界に帰れる」
「はい」
少女の言葉に迷いはない。大洋にも直感でそれが真実だと分かった。
寒さとは別の、肌を刺す感覚がある。この場所に歓迎されながら、拒絶される感覚。自分の輪郭があやふやになりそうな気がした。
「僕は何をすればいい?」
石塔を前にした少女の後ろに立ち問いかけた大洋へ、少女は前を向いたまま首を振った。
「何も。そこで見守っていてくだされば」
その答えもまたこの場の空気と同じ、大洋を拒絶する鋭さがあった。無関心だったことこそあれど、今までに少女が大洋を拒んだことなど一度としてなかったのに。ただそれはあの時、かつてパウラを退けたあの鋭さとは異なるものだった。
だから大洋は今にも祈りを始めようとする少女に重ねて問いかける。前にも聞いたけど、と。
「君はどうするの。終わったら」
今度は、何も返ってこなかった。
少女の全身から発せられる拒絶を無視して、大洋はその隣へ膝を折る。相変わらず美しい水色の瞳と大洋の眼差しが交差した。寒さか熱か、それ以外の何かで震える唇が開く。
「……これで、お終いです」
「うん。だから聞かせて欲しい。君は?」
「私の役目は、これだけです」
「役目は、そうだね」
「それだけなのです」
大洋が黙ると、少女が歌うように続けた。
「『天の世と地の世は一対のもの。この世の穢れが溢れ滅びの危機に瀕する時、互いの世から渡る守り人たちが救いの祈りを捧げるであろう』」
それは大洋がこの世界に呼ばれた時、聖国で聞かされた古い言い伝えだった。あの時のことが、不思議にまざまざと脳裏に蘇る。右も左も、何もわからなかったあの時。帰りたいと言った大洋に長老はこう、大洋に説いた。
「『救いの得られたのち守り人は世にかえる』」
少女の言葉を受けて続けた大洋に、少女の瞳がわずかに揺らぐ。しかしすぐ逃げるように石塔に向き直り、殊更背筋を伸ばしてみせた。
「私も、貴方も、かえります。貴方は元の、地の世に。私はこの天の世に」
ただかえる形が二人で異なるだけ。
無から有を生み出す奇跡と同じ。己が起こしてきた奇跡と同じ、今度は少女が有からかえるだけ。
ずっとそう教えられてきたに違いない。少女の目に揺らぎはあっても疑問はなかった。
「おかしいと、思わなかった?」
大洋は思った。この世界に呼ばれたことも、目の前で起こる奇跡も、アルドもパウラも。これでお終いだという少女も。あまりに大洋の知るものと違いすぎて、おかしい。けれど少女は静かにうなずくだけだった。
「それがこの天の世です」
「……僕は嫌だ」
きっぱりと言い切った大洋を、驚いて少女が見上げた。
「嫌だよ、僕は」
もう一度、もっと力を込めて繰り返す。その勢いに気圧された少女は平衡を崩して地面に手をついた。
「僕は、君と一緒にいる」
寒さか熱か、それ以外の何かで、大洋もまたおかしくなってしまったのかもしれない。おかしいほどの万能感が自分の内を満たしている。どこか怒りにも似て、同時に笑い出したくなるような高揚感。現実味はないが、だからこそかもしれなかった。夢の中だとしたらきっと大洋は何でも出来るだろう。
「……貴方は、元の世に帰らなければ」
だがこれは夢ではなく確かに現実だった。夢なら大洋の望み通り少女は容易くうなずいてくれるはずだが、目の前の彼女はただ瞳をゆらゆらさせるばかり。
「僕は自分で決めた。だから君も自分で決めて」
答えを待たず、大洋は少女から石塔に向き直った。
「じゃあ、始めようか」
「待ってください。貴方は祈らなくても」
「大丈夫。出来るよ」
「待って……!」
少女の制止を無視して、両手を胸の高さで合わせる。心得や作法など知識がなくてもわかる気がした。
ここは大洋のいた世界ではなく、どこかちぐはぐで、納得のいかないことばかりのおかしい世界だけれど、人が幸せを願って祈る思いに差はない。であれば大洋もそのまま、大洋の思いのままに祈ればいいだけの話だった。
頭上から強い月の光が降り注ぐ。いや。どんなに明るい月でも、あるいは太陽であっても、こんな銀色の光はありえない。これは奇跡の光なのだとわかった。大洋たちを中心に、それはゆっくり高まり広がっていく。
「大丈夫だよ、絶対」
出来るだけ穏やかに、大洋は少女に語りかけた。小さい頃の妹、泣き虫だった彼女を慰めた時のように、暗闇を怖がるあの子の手を引いた時のように。
差し伸べた大洋の手を、少女の震える手が取った。
もう光が強すぎて、少女がどんな表情をしているか見えない。しかし大洋の手を握り返す強い力があった。大洋もまた、それ以上の力で応える。
この手の間に行き交う熱を、きっと奇跡と呼ぶのだろう。
そして、光は弾けた。
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