第37話

 岩肌を一歩、一歩、登る。

 足の裏に伝わるのは硬い岩の感触ばかりのはずが、時折ベッドの上を歩くような気持ちの悪い浮遊感がある。発熱していたのは少女だけではないのかもしれない。鈍い頭痛も未だ断続的に続く。

 いつの間にか入れ替わった前後。ほとんど一歩ごと振り返れば、少女が二歩遅れてついて来ている。後ろから急かされることはない。二人共それが精一杯の速度だった。

 歩いては休み、休んでは歩き、いくらも進んだとは思えないが、陽は既に高い。空は昨夜の雨が嘘のように青く澄み渡っていた。対照的に眼下には分厚い雲が敷き詰められ、麓の様子はまったく見えない。大きく、大きく空気を吸い込む。肺が冷たさに悲鳴をあげている。目に涙が滲むのは、何に遮られることなく陽の光が突き刺さるからか。

 吹き下ろす風は山の呼吸そのもの。幾度となく煽られるうち、いつしかそれを知覚できるようになった。殊更強く吹きつける前に身体のどこかが察している。後頭部からうなじを抜け、背中がざわつくその気配に振り向いて少女へ手を伸ばせば、無言のまま少女もそれを取る。二人して岩肌に張りついて、山と一体になって風を後ろへ送る。草木のように、言葉は必要ない。二人は山に打ちつけられながら二人で山の一部になっていく。


「見て、」


 冷たく乾ききった空気。突き抜ける青の中。

 忘我のまま登る先に、地面と空の繋ぎ目があった。

 見つけたのは、やはり前を行く大洋だった。すぐ隣に並び、少女も上を見上げて間違いないとうなずく。


「聖地です」


 そこから先が一番長かった。到達点は見えているのに、步けども歩けども、目の前のそこへ一向に近づいている気配がない。これまで歩いてきた道のりのほうが遥かに長いのに、まるでその倍以上も遠くにあるかのような気がした。

 やがて陽は昇ったのと反対側へ大きく傾き、目に沁みる青が赤く染まり始め、大洋は振り返って少女を見た。少女は無言で首をふる。予想に違わぬ反応だったので、大洋もなにを返すことなくそのまま歩き続ける。足元はもちろん危うかったが、黄昏時を過ぎ闇に包まれた頃には煌々と月が辺りを照らし、昼と変わらないほどの暗く明るい世界が二人を中心に広がっていた。

 何度目か、少女が躓いて膝をつく。引き上げようとその腕を持った大洋だったが、不意に視界が歪み一緒になってうずくまった。拍子にこつりと額が軽く打ち合う。銀色の睫毛が震え、たまらず息が漏れた。


「大丈夫?」

「……はい」


 やりとりに意味などない。お互いにお互いが極まっていることはわかっていたが、足を止める気がないことも、確かめるまでもなくわかっていた。また大きく息を吐いて、吸って、互いの腕を掴んで一緒に立ち上がる。急な上下運動に喉の奥から何かがせり上がってくる。しかしもうそこには何もないはず。額を合わせ、掴む腕に力を込めてなんとかやり過ごした後、二人同じ表情でまた息を吐いた。

 もう一人では一人分も歩けない。二人で合わせて、ようやく一歩を踏み出す。


「後、少しだから」

「はい」


 触れ合う身体は熱く震えているが、どちらの熱で、震えなのか、重なり合って定かでない。大洋の足が少女の足になり、少女の呼吸が大洋の呼吸になる。


「大丈夫です」

「うん」


 意味はない。恐怖もまた、ない。

 強く吹き下ろしていた風が、いつのまにか優しくなっていた。明るすぎる月は岩肌を白く輝かせる。夜に浮かび上がるそれはまるで準備された舞台の道のりだった。厳かな光に導かれて、二人は二人で進む。

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