第36話
意識を失っていたのはほんの一時だっただろう。夜半過ぎにようやく雨がやみ、少ししてわずかに空が白みはじめた。そのことに気を抜いた一瞬の隙に、火は絶えてしまっていた。はっとして見たその先で、今まさに焼け跡から最後の一筋の煙が上り終えている。
しまった、と大洋は顔をしかめたが、その間にも辺りは明るくなりつつあることに気づき、そっと息を吐く。隣の少女を伺えば、安眠かどうかは分からずとも深く寝入っているらしい。まだ早いかもと気の毒な気もしたが、仕方無しにその肩を軽く揺すった。髪と同じ銀の睫毛が震え、うっそりとまぶたを持ち上げる。水色の瞳がぼんやりと大洋を見た。
「朝だよ。少し、早いけど」
半覚醒のまま少女は視線を泳がせ、やがてのろのろと起き上がり岩陰から出た。大洋もその後に続く。外には昨日より一層冷えた空気と綿のような分厚い雲が海となって広がっていた。ただ、頭の上にはなにもない。陽はまだその姿を見せてはいないが、気配だけで十分辺りから闇を拭い始めている。
やはりわずかとは言え風除けのあるとなしでは感じる寒さも大きく異なるらしい。岩陰から出た途端吹き下ろす風に爪先から震え上がる。それと同時に、煽られた少女の小さな身体がぐらりと傾いた。
「あ、危ない……っ」
反射的に手を伸ばし少女の腕を引っ張ったは良いものの、軽さに勢い余って抱き込んでしまう。何の抵抗もなく飛び込んできた身体の薄さに、いつかの記憶が蘇った。あの時もあまりに少女が軽くて驚いたが、今腕に感じる儚さはその比ではない。その上、不自然なほど熱かった。
「大変だ、熱が」
今まで触れたことのある少女の肌はいつも大洋より冷たかった。それが今、はるかに熱い。額に手を当てた大洋に、少女は目を細めた。自分より冷たい手が心地よかったのかもしれないが、それはつまり少女の熱の高さを示しているに他ならない。
「……大したことはありません」
「何言ってるんだ、この熱さで。今日は休もう」
「いいえ」
「えっ」
大洋としては当然の提案をしたつもりだったが、少女は間髪を入れずそれを却下し大洋の手から離れた。
「先を急ぎましょう」
「待って! そんな熱じゃ無理だって、休まないと」
「いいえ……」
今までにない頑なさに、眉根が寄る。
「無茶だよ、途中で倒れるかもしれない」
「大丈夫です」
また根拠のない『大丈夫』だ。今度は流されてはならない、と大洋は一層眉間に力を込めた。
「駄目だ。とにかく少しでも」
「お願いです」
もう一度少女の腕を捕まえて言い募ろうとした大洋は、遮られて思わず動きを止めてしまった。驚いた大洋とは対照的に少女のほうが眉間を寄せて大洋を睨むように見つめている。
「あと少しだから」
言うなり少女は胸の前で手を組む。一瞬でまばゆい銀の光が辺りを包んだ。あまりの強さに目がくらむ。太陽を直接見た時のような痛みはないが、それでもしばらく動けなかった。やっとそれが収まり視界が戻った時、目の前の少女はまるで何事もなかったかのようにしゃんと背筋を伸ばして立っていた。
「もう、大丈夫です」
そう言いながら大洋の手を取る少女の手は宣言通りいつもの冷たい手だった。額を確かめても、熱は高くない。どうだとでも言うような目が下から大洋を見上げる。そのまま押し黙ったのをなんと捉えたのか、とにかくこれで話は終わりだとばかり、少女は大洋に背を向けて歩き出した。そして一歩、二歩、三歩目で片方へわずかに傾ぐ。その頼りない足取りに大洋は拳を握りしめた。怒りと悲しみが一度に去来して、胸の内で荒れ狂う。
どんなに表面を冷たく凍らせてもその下の熱は取り除けないし、骨が震えるのもごまかせはしない。ただ大洋が引き下がる理由を少女から与えられたに過ぎず、結局己は少女の歩みを止められないということだけはわかった。どうして、と問うことは最早できないし、意味もない。留まるも戻るもなく、ただ進むしか二人にはない。
大洋は、随分と軽くなった荷をその場に打ち捨てた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます