第35話

 根拠のない少女の大丈夫に背を押され、それからも大洋はただひたすら足を動かした。後ろを歩く少女も必死に岩肌へ取り付く。登るにつれてますます傾斜はきつくなり、足元が危うくなる。実際にあわや、ということも幾度かあって、その度ごっそりと体力が奪われていく。大洋も少女も、何故かひどく気が急いていた。一刻も早く頂上へ、聖地へたどり着きたくて、しかし休まないわけにもいかず。それがもどかしい。

 夜明けから歩きはじめて、もう何度目の休憩だろうか。少しばかり視界も覚束なくなってきている。睨みつけるように天を仰ぐ大洋の頬に、ぽつりと水滴が落ちてきた。


「雨……」


 山の天気は変わりやすい。呟いた次の瞬間には、バケツを引っくり返したような土砂降りになってしまった。運良く屋根になりそうな岩の下にすぐ飛び込めたが、それでも頭からは水が滴り落ちていき、背中を駆け上る悪寒にくしゃみが出た。少女が震えながら小さな火を灯す。慌てて薪の代わりになるものを探して荷を漁った。


「……今日はもう、無理かな……」


 岩陰から見上げた空は灰色で塗りつぶされていた。いつまで降り続くのか、大洋たちには見当もつけられない。相変わらず強い風が雨を巻き上げ、まるで下から雨が降ってくるかのようだった。日没までの時間もそう残されていないはずで、となれば潔く諦めたほうが良さそうだと大洋はため息をつきながら腰を下ろした。

 少女の灯してくれた火は、今にも消えそうに弱々しい。だがそれは単に燃やすものがない所為だった。燃料も食料も、そして大洋たちの気力体力、もうなにもかもが底をついてきている。前向きな気持でさえ削ぎ落とされて、身軽になるばかり。決して良い意味ではない。


「先に寝てて。後で交代しよう」


 火のそばで小さくうずくまっていた少女が、微かにうなずく。疲れているのだろう、そのまま気を失うように寝入ってしまった。大洋もまったく余力はなかったが、文字通り命綱となる火を絶やす訳にはいかない。気を抜くとすぐさま意識を飛ばしてしまいそうになるのを何度も叱咤する。


 ――こんな時、アルドがいれば。

 ――そばにいるのが、パウラだったら。


 答えのない不毛な思いが、ただでさえ余裕のない大洋の心のうちを埋めていく。

 意味のないことだとはわかっている。しかしいくら考えるな、と己に言い聞かせても、それもまた無理な話だった。気を張って歩いているうちは考えずに済んでいたが、ただじっと時の流れるのを待つ今、それは避けようがない。


 ――帰りたい、よりも、戻りたい。


 元いた世界にじゃない。四人でいた時、何事もなく旅をしていた時に。

 森を抜ける前か、森に入る前か。レコの家で過ごした時か。それとも、それとも。

 一体いつから、パウラは自分に不満を持っていたのだろう。それを払拭できていれば。いや、しかしそれはきっと最初からだ。それなら『何事もなく』なんて、始めからなかったのではないか。

 この旅は、最初からこうなる筋書きだったのではないか。

 それなら、やっぱり、どうしたって、自分のせいじゃないか。


「ごめん……」


 目の前の小さな火が、大きく揺らぐ。頬を伝うものは熱いはずが、一瞬でその熱も奪われてしまう。誰にも罰してもらえない孤独がいっそ憎くすらあった。


「ごめん、」


 目を閉じればきっと彼らが夢に出てくる。大洋の罪の意識と願望で描いた彼らは、夢の中で思うまま、自分をなじってくれるのだろう。

 そう考えてしまえば、謝罪をする自分もまた、許しがたかった。

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