第33話

「ぎゃ、ぁぁあ!!」


 その叫び声すら炎にのまれていく。目と鼻の先にいた大洋には火の粉すら降りかからない。パウラだけを呑み込み、しかしほんの一瞬で炎は消え去った。


「パウラ!」


 ものの焼ける匂いと煙が立ち昇ったがひどいものではない。途切れ途切れ、唸り声が聞こえる。倒れ伏したパウラだが、意識は失っていないようだった。その手にはまだしっかりナイフが握られている。駆け寄る少女も一歩手前でぴたりと立ち止まった。


「……聖女、様」


 名を呼ばれ、更に後ずさる。昏い目が少女を見上げた。

 表情は違えど、その目には覚えがあった。パウラから少女への思慕や願いや、それが行き過ぎた故の哀しみと憎しみ。ありとあらゆる感情をないまぜにした、卑しく醜く、黒く昏い目だった。

 焼けた身を引きずってなんとか起き上がろうとするパウラに、だが少女は手を貸しはしなかった。伸ばした手は虚しく宙を掻く。何故、とその口から漏れた空気にも、少女は首を横に振った。


「マサヒロ様を守り人として呼んだのは私です」


 静かに少女は言い切った。


「たとえ間違いであったとしても、責められるは私であって彼ではありません」


 淡々と続く少女の言葉は、しかしパウラを更に煽ってしまう。食いしばった歯の間から駄々をこねる赤ん坊に言い聞かせるような、苛立ちとおもねりがポロポロとこぼれ落ちていく。


「聖女様。私が、お助けします。間違いがあったとしても、私がそれを正します。聖女様はただそのご使命を果たされることだけ、」

「いいえ」

「惑わされてはなりません、聖女様。聖女様のご使命は」

「わかっていると言ったはずです。パウラ」

「では、」

「貴方とはここで別れなければなりません」


 パウラの息を呑む音が大洋にまで聞こえた気がした。時が止まったかのようにパウラは動きを止める。


「――何を、言われるのです」


 まったく信じがたい、と呆然としたままパウラは呟いた。少女が一歩踏み出す。今度は逆に、パウラが気圧されたように肩を引いた。構わずまた一歩、一歩、とうとう少女はパウラの目の前まで来て、膝を折り視線を同じくした。そして手を伸ばし、パウラの握るナイフを静かに取り去った。

 パウラ、と名を呼ばれ、呼ばれた本人は身を震わせた。冷たい声はいつかよりも一層凍てつき、ナイフよりもはるかな鋭さがあった。どんな炎にも溶かせない氷の刃が、パウラの身体を貫いていく。


「貴方が居らずとも、私は使命を果たします」

「そんな、いえ、しかし」

「私が使命を果たすのに、何も必要ではないのです。貴方の言う通りです。貴方も必要ではありません」


 深々と突き刺さったナイフに見えない血が吹き出す。


「私は私の、あの方はあの方の、それぞれの使命があります。ですが貴方には何も、負うべきものはないはずです」


 少女が立ち上がった。


「ただ、貴方は道を妨げてはいけません」


 パウラが少女の名を呼び取りすがろうとしたが、無常にもそれは振り払われた。服の裾についた汚れとともに。


「今貴方のしていることは、私の使命を妨げる行為です」

「いいえ……、いいえ! そんなはずはありません、私は、私こそ、聖女様のお力になるべく、」

「不要です」


 今度こそ凍りついたパウラに少女は背を向け、最後の通告を突きつけた。


「さようなら、パウラ」


 すぅ、と一筋の涙が、焼け焦げたパウラの頬を流れて落ちた。

 ひりついた喉を開いて何か発しようとするが、それは言葉にはならずはくはくと唇が開いて閉じてを繰り返すばかりで、とうとう漏れるのは嗚咽だけになった。

 そしてパウラに背を向けた少女は、最初からそこにはなにもなかったかのようにそれら一切を顧みることなくまっすぐ大洋の元へ歩み寄ると、アルドの横に膝をつく。アルドの名を呼びかけるが、ろくな反応は返ってこない。大洋が抑えていた傷口からも、熱は失われつつある。少女がそっと、大洋の手の上に自らのものを重ね、祈りを捧げた。一瞬で銀色にきらめく癒しの風が巻き起こり、今までにない早さでアルドの傷を塞いでいく。ここには希素が満ちていると言ったからそういうものなのかもしれない。傍にいた大洋の腕の傷までもが癒えていく。

 しかし、流れ出た血は戻らない。失われた熱が、再びアルドにともることはない。


「……アルドさん」


 呼びかけに、薄っすらとアルドは目を開けた。落ち着いた茶色の瞳が虚ろに宙をさまよう。もう見えていないのかもしれない。ただ先ほどまでの苦悶の表情が薄らいでいるだけ、それだけが唯一の救いだった。


「アルドさん」


 唇が動いて空気が漏れるがまともな音にはならず、屈んで耳を寄せる。どうか、という言葉が辛うじて聞こえた。


「聖地へ……、守り人、様」


 お救い下さい、と途切れ途切れそう言ったアルドの姿は、初冬の朝に張ったばかりの柔い薄氷のようで、今まで鋭い剣となり厚い盾となり大洋を守ってくれた彼自身とあまりに遠くかけ離れていた。一息ごとこぼれ落ちていくものが、大洋の胸を潰す。分厚いその手を大洋が握れば、もう握り返す力はないもののかすかに指が動いた。傷口が塞がったあとも、少女はなお祈りを捧げ続けている。きっと痛みはないはずだと思いたい。

 アルドさん、ともう一度大洋は呼びかけた。しかし後に続けるべき言葉が分からない。礼を言うべきなのか、労うべきなのか、あるいは詫びるべきなのか。分からないまま、アルドの手を包み込むようにして大洋もまた少女とともに祈った。そこから命とも言うべき最後の力が抜けていくまで。

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