第31話

 旅の辛さはそれから、肉体を超えて一歩ごと、心を麻痺させていった。

 アルドの負った傷は深く、庇う形で少女も疲労を溜めていく。誰も彼も傷の治るより増える方が早く、一層歩みは遅くなり、しかし間を埋める言葉はなくなった。あるいは感情を鈍麻させる事が唯一、歩を進める手段だったのかもしれない。

 あの夜の、狂気と言えそうなほど激しいパウラの怒りは、ともすれば泡沫のように脳裏に蘇っては拭いきれない重しを大洋の中に残していく。何を言うべきかわからず沈黙を貫くしかない大洋だが、それはパウラも同様だった。大洋以上に口数を減らし、いっそ周囲に同化するかのように存在自体を希薄にしながら、時折交差する目はゾッとするほど昏い。何も言わないから何も言えない。それ以上に今は、関わることが怖かった。

 四人とも、まるで何かから逃げるように歩き続けた。

 そしてまた幾日後に、森が切れる気配を見せた時。文字通り一筋の光明を見出す気持ちに大洋はなった。随分と標高も上がって、冷たい風が吹き下ろしてくる。木々の合間を縫うそれは淀む魔素を一掃するかのような清涼さで、思わず力が抜けそうになった。ああ、と並んで歩いていたアルドも同じように安堵の嘆声を漏らす。


「やっと、ですね」


 口をついて出た言葉がこれほど明るく、忖度のないものなのはいつぶりだろうか。大洋の方を見たアルドも、大きくうなずいてみせる。


「もうすぐです」


 まるではっきりと線でも引かれているかのように、森の終わりは唐突だった。ある木の根を乗り越え、その先はもう遮るものの何一つない昼の青空が広がっていた。あまりの空の大きさに驚き吸い込んだ空気が、肺を凍りつかせるように冷たい。

 森林限界、という言葉が脳裏に思い浮かぶ。標高が上がって気温が低くなったり空気が薄くなったり、気候変動の影響で高木、つまり森林が生育できなくなる限界線のことをいうのだったか、ともう朧げな記憶を引っ張り出す。それがあまりにぼんやりしていて、また大洋は驚いた。

 ある日いきなりこの世界に来て、どれくらい経ったのだろうか。昼夜を分かたず習慣のように元の世界のことを思っていたのに、いつの間にかすべては遥か遠くになってしまった。元の世界の記憶の輪郭が急速にあやふやになっていく。まるで大洋自身が自ら元の世界から遠ざかったのだと示すかのように。

 どくどくと耳の後ろが大きく脈打つのは、突然沢山の冷たい空気を取り込んだからだろうか。鈍く頭が痛むのは、きっとこの高さのせいだろう。少し休めば、きっと良くなる。


「……魔素が、晴れていきます」


 ぽつりと少女がこぼす。アルドも同意した。


「不思議ですね、森から一歩出ただけだというのに。聖地の影響なのでしょうか」

「おそらくは。……清らかにすぎる気もしますが」

「清らかにすぎる? 希素が濃いということですか?」

「……わかりません。しかし、魔獣の心配はなくなるでしょう。この空気の中であれらは耐えられないはずです」

「それは、ありがたい……」


 そんな二人の会話が霞がかっていた。単語の理解が一拍遅れる。少し額ににじみ出た汗を拭って、大洋は深呼吸を繰り返した。大丈夫、問題ないと自分に言い聞かせまばたきを繰り返す。頭痛を振り切るように仰ぎ見た頂上はまだ遠く、雲もかかってはっきりとは見えない。


「マサヒロ様、参りましょう」


 少し遅れた大洋にアルドが声をかけた。答えようとして、また鈍い痛みが後頭部に走る。大丈夫、と気分の悪さを努めて無視して振り返った視線の先で、アルドが驚愕に目を見開いていた。どさ、と荷を落とす音が聞こえる。


「え?」


 マサヒロ様、とアルドの声が近すぎて遠い。荷を放り出し大洋に飛びかかってくる様子が、まるでコマ送りの映像のようだった。そして一瞬後、どん、と衝撃が来た。身長も体重も自分よりずっとあるアルドだから、それは当然重い。しかし大洋を突き飛ばすのではなく、抱え込むようなそれで、感じたのは不思議な感触だった。


「アルドさん」


 頭痛で鈍い頭は起こった出来事を一向に理解しなかった。アルドの大きな体が覆いかぶさるので、視界は遮られてしまい何も見えない。歯の間からうめき声が絞り出されたかと思うと、急激にその身体は芯を失い加減なくのしかかってきて、支えきれず大洋はその場に膝をついた。


「どうしたんですか、急に……」


 慌てて腕から抜け出て顔を見ようとするも、ますますアルドの身体は崩れ、手をつくことすら出来ず倒れ込んだ。その背中に何か、深々と突き立つものがある。無意識のまま伸ばした大洋の手になにか、生温い感触があった。それは体温とも違う、アルドの身体から流れる――


「アルドさん!」


 完全に倒れ伏したアルドの背に突き立っていたのは、一振りのナイフ。

 そしてその背後には、パウラが立っていた。

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