第30話
肩にかかる他人の体温は、冷える夜の森では随分助けになった。かすかな息遣いが命を証明し、その事実が大洋の心に落ち着きをもたらす。
魔素の濃い森に入ってから、少女はもちろん、アルドもパウラも明らかに調子を落としていた。山の麓とあって標高も徐々に上がっているからそれもあるかもしれない。その中で一人、大洋だけが平生と変わらず動けている。空気の悪さや悪路などの影響はあるが、三人の落差と比べれば微々たるものだった。何時ぞやパウラが言った通り自分は穢れに強いのかもしれない。あの時は多分に皮肉だったのだろうが、こうなると言葉通り受け取ったほうが正しい気もする。
夜が明けてもアルドの回復はそう望めないだろう。だがここに留まるより、とにかく急いで森を抜けたほうが良い気もする。となれば一人まともに動ける自分が荷を多く担ぐ必要がある。少し中身を見て軽くしたほうが良いか。パウラが起きたら相談してみよう。
先ほどまで何も出来ないと自分の無力に打ちひしがれていたのに、不思議なほど前向きに次の一歩を検討できていることに大洋は気づいて、自分の単純さに内心苦笑した。少女が起きたら、またちゃんとお礼を言おう。言っても本人はなんのことかと首を傾げるだろうが。
パチリと火の爆ぜる音がした。焚き火が随分小さくなっている。ろくな薪がないので仕方がない話だ。少女を起こさないよう、そっと傍らの薪に手を伸ばそうとして、暗闇の中が動いた気がした。ぎくりと肩を強張らせたが、パウラが起きてきたのだと気づいて詰めていた息を吐く。
「パウラさん。ちょうど良かった……」
そろそろ交代かと思っていた頃だ。
そう続けようとしていた大洋の声を、突如パウラが遮った。
「離れて!」
魔獣が襲ってきたのかと傍らの少女を庇おうとしたが、それより早くパウラが大洋に掴みかかった。
「聖女様から離れなさい!!」
凄まじい力で突き飛ばされ、持っていたナイフがパウラを掠めそうになる。咄嗟に手を離すと、ナイフは反対側へ飛ばされていった。文字通り奪い取った少女を抱え込むパウラに、痛みよりも衝撃よりも、ただ驚きで大洋は言葉を継げられない。眠っていた少女は尚更驚きに目を見開いていた。
「……急に、どうして」
パウラもまた寝惚けて、なにか勘違いをしたのだろうか。むしろそうであって欲しいとつぶやいた大洋を、しかしパウラはまっすぐ、怒りに煮えたぎった目で睨みあげた。どうして、と今度は違う意味でつぶやきがこぼれ落ちる。
「待って下さい、パウラ……」
驚きからようやく立ち直った少女が、自分を抱え込む腕をなだめる。それでもパウラの激昂はおさまらない。まるで我が子を襲われた獣のように、激しい怒りが全身から立ち上っている。
「……パウラさん、」
「近寄らないで、汚らわしい!」
ガン、と殴られたような錯覚に襲われた。めまいまで覚える。
今までも良好な関係であったとは言い難い。それでもお互い境界線を探りながらなんとかやってきた。これからもやっていくはずなのに。
あまりのことに言葉が出ない大洋と、怒りに身を滾らせるパウラと、そして為す術もなく腕に囲われたままの少女と。
「――お止め下さい」
割って入ったのは、アルドだった。その声に我に返って、見れば険しい表情のアルドがパウラのすぐ背後にいた。まだ傷が辛いのだろう、左半身を庇うようにして身を起こし、パウラに向かって腕を伸ばすがその途端痛みに呻く。いけない、と少女が声を上げ、その拍子に緩んだパウラの腕をすり抜けて崩れるアルドを支えた。パウラもまた少女とは反対からアルドの身体を支える。張り詰めていたその場の空気が一気に霧散した。
「……パウラ殿。一体なにが。急にどうされたのですか」
少女とパウラに両方から支えられ、どうにか地面に腰を下ろしたアルドが独り言のように問う。大洋はパウラに突き飛ばされ尻もちをついた姿勢のまま、まったく脱力してしまって動けない。誰もそんな大洋に視線ひとつ寄越さなかった。
「なにもありません」
いかにも忌々しそうな声でパウラは言い捨てる。
「なにもないで急にあの言いようは、あまりにも」
「急になどと! 当然のことです」
燃え上がった怒りの炎は未だ収まっていなかったらしい。再度の激しさで今度はアルドを睨みつける。
「当然? なにが当然だというのですか」
「アルド様こそ、何故止めないのです。あのようなこと」
「あのようなこと、とは」
激昂を突きつけられるアルドは、戸惑いはあれどしかし大洋より遥かに冷静だった。怒りの矛先が己ではないからかもしれないが、あくまでも冷静にパウラを受け流し、手紙のことですか、と答えを期待しない声で答えた。
「良いではありませんか。我々はなんとしても、なにをしてでも、聖地へ行かねばならないのです。その為に励みになると言うなら、なんでもいい」
「――馬鹿な!」
ポツリと大洋の心に染みが落ちる。ずっと淀みなく流れていた小川がふとなにかに引っかかったような。しかしそれは掴み取るより先に、パウラの怒りの奔流にのまれて去っていった。
「相応しくありません。なにも、かも!」
よもやお忘れですか、とパウラは更に言い募る。
「重きを置くべきはその先です。聖地にたどり着いたその先、祈りに邪念が生じたら如何がなさるのです。聖女様は、守り人様のご使命は、ただこの天の世を救うこと。それのみのはず。他の目的など、その意味すら揺るがしかねない!!」
血反吐を吐くかのようなパウラの叫びで、辺りは水を打ったように静まり返る。怒りに目を吊り上げ身を震わせるその姿を、大洋はただ呆然と見つめるばかりだった。
こんな時でさえ、深い森はすべてを飲み込んでいく。地面から這い上がってくる夜明け前の冷えに背筋が震えた。それでもまるでその場に張り付いたかのように、指一本動かせなかった。
「パウラ」
その痛いほどの沈黙の中、少女が厳かに声をあげる。皆が少女を見た。
「聖女様、」
「落ち着いて下さい。貴方の言うことは、理解しました」
アルドとパウラ、二人が対峙する間に割って入り、宥めるように少女はパウラの腕を取る。
「であれば、聖女様」
「私も、私の使命を理解しています。貴方以上に」
それは肯定のようでいて、静かな否定だった。パウラは少女を見ているが、少女はパウラを見ていなかった。頭から冷水でも浴びせかけられたように、一瞬でパウラの怒りの炎が鎮火させられたのが大洋にもアルドにも、そしてパウラ自身にもわかった。それでもなお、少女自身の声に非難はない。
夜の闇よりも冷え冷えと、凍てついた少女の眼差しがアルドを見る。
「アルド」
「はい」
「貴方には苦労かけますが、まだ剣を振るっていただかねばなりません」
「無論です」
痛みに耐えながら、アルドは姿勢を正す。大洋の目に、それはまるきり姫に忠誠を誓う騎士のように映った。
「マサヒロ様」
続けて少女は大洋の名を呼ぶ。大洋は思わず硬直したが、同じくらい、パウラもまた身を強張らせた。
「私も貴方も、守り人です」
わかりきったことを、少女は告げた。そうですね、と有無を言わさぬ声に気圧され、引きずられるように大洋はうなずく。少女が大洋に向かい足を踏み出す。身を乗り出したパウラをアルドが咄嗟に押し留め、聞こえた唸り声はどちらのものか。狂気さえにじむ目が、わずかな光源の闇に浮かび上がる。
「私と一緒に来て下さい」
少女はへたり込んでいた大洋の前まで来ると、まっすぐに手を伸ばした。
「役目を果たしましょう。貴方と、私で」
声は冷たい。水色の眼差しも。拒否を許さない強さが込められたそれらは、ともすれば畏怖の念さえ感じさせるものだった。
もちろん大洋にそれを拒絶するつもりはない。自らも伸ばしつかみ取った少女の手は氷のように冷たく、その冷たさに喉の奥からせり上がってくるものがある。この冷たい手を一刻も早く、温めてやりたい。目尻から何かが溢れて零れ落ちそうになる衝動を、大洋はただ少女の手を強く強く握りしめて、やり過ごした。
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