第29話
「少し、休みましょう」
魔獣に襲われてから、どれだけ歩いただろう。
パウラたちに遅れないよう、必死に足を動かすだけに集中していて時間の感覚がない。気づいた時には視界が一層悪くなっていたことから黄昏時も過ぎた頃だろうか。途中意識を取り戻したアルドがいくらかは自分の力で歩いてくれてようやく見失わないで済んだが、それ以外は何に構う余裕もなかった。新たな魔獣に襲われなかったのは幸運だとしか言いようがない。
パウラの声にアルドと二人、わずかに開けた地面へ倒れ込むように腰を下ろすと、すぐさま少女がアルドに駆け寄る。改めて見たそれは、左の背から二の腕にかけて、思わず顔を背けたくなるほどひどい傷だった。少女の祈りの奇跡で新たな出血は止まったようだが、失われたものは戻らない。紙よりも白くひどい顔色で、申し訳ございません、とアルドは絞り出した。
「アルドさんが謝ること、ないです」
それは偽りない本心ではあったが、にじみ出る不安を隠すこともできなかった。
パウラも腕は立つがアルドには及ばない。火を起こしたり突風を吹かせたり、少女の奇跡の力は魔獣をも容易く追い払う。しかしそう何度も頼れない。現に今、少女の顔色はアルドと揃いだった。言わずもがな、大洋は自分の身を守るだけで精一杯。
アルドの受けた傷は深く、少女の祈りをもってしてもすぐには治らない。利き腕は無事だが、それで森を抜けるまでもつとはとても思えないし、抜けた後が安全である保証もない。
「ここならしばらくは大丈夫かと。アルド様は少しお休み下さい、聖女様も」
粉末にした薬をアルドに飲ませながらパウラが言った。
「パウラさんも休んで下さい。最初の見張りは僕がしますから」
「お一人では無理でしょう。私のことは問題ありません」
「何かあったときにパウラさんが倒れたら、それこそお終いです」
彼女もまだ先ほどの襲撃の興奮から冷めきっていないのだろう。ちらと大洋に視線をやってパウラは言い捨てた。いつも以上に声に余裕がない。だからこそ、と大洋は腹に力を込めた。
「……分かりました。後で交代します」
今回は大洋の方に分がある。渋々うなずいたパウラが休む姿勢を取ったのを見届けて、大洋はナイフを片手に取り居住まいを正した。少女の起こしてくれた火が一層周囲の闇を深くしていて、視界はろくに利かない。しかし奇跡を元とするためか、すべてではないが魔獣たちの多くはこの火を敬遠するらしく、休む時には欠かせない。
紙に墨を落とすように、夜は更けていく。森は変わらず静かだが、昼よりも一層濃い気配を漂わせている。夜行性の魔獣たちが夜陰に紛れ活動し始めたのだろう。大洋の耳や目で知覚できないだけで、きっとそこかしこに潜んでいるはず。パウラが目を覚ますまでひと時も気を抜いてはいけない。
何一つ見過ごすまいと、そう思えば思うだけ緊張は高まり、呼吸は浅く荒くなっていく。
もし今、魔獣が襲いかかってきたら。まず声を上げて知らせながら、ナイフと火で牽制する。それで追い払えなければパウラとともに時間を稼ぎ、その間に少女にまた奇跡の力を起こしてもらう。
結局それしかないのか、と大洋は己の考えに苛立ちながら息を吐いた。休む少女に視線をやる。これではちっとも少女の負担が軽くならない。それどころかアルドの分まで背負わせてしまう。かといって、大洋が代わりにできることはない。何をどう足掻いても、その事実は動かしようがなかった。
あまりに強い大洋の思いが刺さったわけでもないだろうが、視線の先で不意に布の塊が動いた。え、と声を上げると同時に少女が身を起こす。暗闇の中で目があった。
「……大丈夫?」
少しぼんやりとしている様子だったが、大洋が声をかけると緩慢な動作で首を振った。肯定とも否定ともとれるが、とりあえず大きな問題はなさそうなのでそれ以上は構わないでいると少女はおもむろに立ち上がり大洋の隣に腰を下ろした。
「なにか、」
「怪我をしています。貴方も」
指摘されて初めて気がついた。左の肩、微妙に見え隠れする位置が赤い。背後から襲いかかられた時のものだろう。
「本当だ、気づかなかった」
「見せてください」
「いや、これくらいなら大丈夫。君はまだ休んでて」
傷と認識した途端急に痛みだしたが、既に出血も止まっているしそうひどいものではないはずだ。少女にさらなる負担を強いてまで急ぎ治してもらう必要もないだろう。後でパウラと交代の時にでも手当てしてもらえば。そう判断した大洋の言葉に少女は大人しく引き下がったが、目が冴えてしまったのかその場から動こうとはしなかった。疲労具合を考えれば休んだほうが良いとは思ったが、それ以上言うのは止めた。一人での見張りが心許なかったのも、実はある。
か細く燃える火をぼんやり眺めながら、大洋はごめん、と小声でささやいた。
「君を守りたいなんて言ったくせに。結局君に助けてもらってばっかりだ」
頬に少女の視線を感じるが、正面からそれを受け止められそうになくてただ火を見つめる。少女もまた、大洋にだけ聞こえるような声で返した。
「……聖地までの道のりが険しいことは、最初からわかっていたことです」
思わず小さな笑いが浮かんでしまって、大洋は慌てて悟られる前に、そうだね、などと無難な言葉で誤魔化した。
大洋の吐いた自虐的な弱音に、多分彼女はわずかな苛立ちを覚えている。そしてそれを否定したくて、でもなんと言えば良いのか分からなくて。不器用な物言いに、不貞腐れたときの妹を思い出してしまったのだ。あいつも根は優しいくせに気が強いから、いつもそんな態度でよく誤解されていた。少女はきっと、自分を慰めたかったのだろう。
出会ったばかりの頃では絶対に気づけなかった少女の優しさも、今ならよくわかる。そしてそれに大洋自身これっぽっちも疑いを抱いていない。少女の息遣いがすぐ隣に感じられる。それだけで先ほどまでとは比べ物にならないほど、大洋の心中は落ち着きを取り戻し始めていた。
字を、と火を見つめながら、今度は少女のほうが漏らす。
「えっ?」
「しばらく教えられていませんでした。字を」
「あ。ああ……」
文字を教えるという約束は、森に入って以降ほとんど進んでいなかった。
そんな状況ではなく余裕もなかったからだが、当然のことだろうと大洋にも不満はない。しかしもしかしたら少女の方は負い目を感じていたのかもしれない。一旦は引き受けたのに、と。気にしないで、と大洋が言うより先に、少女は棒切れを手に取り地面に何やら書きつけ始める。
急遽始まってしまったらしい勉強会に苦笑しながら、大洋はありがたく従うことにした。やがて疲れた少女が、大洋の方に頭をあずけて寝入ってしまうまで。
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