第28話

 鬱蒼と茂った緑が太陽の光を遮っている。そのため常に肌寒さがまとわりつく一方、不安定な足元は息が切れるほどで、一歩踏み出すごとに体力も気力もごっそり奪われていく。

 殊更大きく張り出した木の根を乗り越え、大洋はふっと息を吐いた。根はびっしりと苔生し気を抜くとすぐ滑る。汗を拭い、振り返って後に続く少女へ手を伸ばした。互いに言葉を交わす余裕はない。無言でその手をとり根を乗り越えた少女もまた、深い息をつく。あとどれだけ歩けば森を抜けられるのか、見当もつけられないその深さに忌々しさが募った。


 ここから先はなにもないというレコの言葉は、皆予想はしていたがやはり正しく、あれから一度も街や人家を見つけることはなかった。そのまま幾日も時間をかけて歩き続け、ついにたどり着いたのは聖地を抱く山の麓、荒れ野と山の境界であるかのような深い森だった。

 それまでの荒れ野とは打って変わってあふれかえる緑は、山裾をぐるりと囲むほど広い。遠目にもその広大さは見えていたが、間近に目にすると圧倒される。これほどに緑が豊かならば水や木の実や、なにかしらの恵みにありつけるのではないかとも思えたが、しかしそれがまったく見当違いの甘い考えだということは、森に踏み入ってすぐわかった。

 その森は大洋の知る穏やかなそれとはまったく様相を異にするものだった。木々は不自然なほど生い茂って光を遮っているのに、足元にはつま先を見失うほどの下草。濃すぎる緑はもはや黒にも近く、時におどろおどろしい空気を漂わせている。倒れた木は腐って周辺の土までも汚し、沼と化していることもあった。すべては充満する魔素の所為なのだろう。

 あいかわらず大洋の目に空気中のそれは見えないが、ここに来てあまりの濃さ故か肌がピリピリと刺されるような感覚を覚えていた。魔素が濃くなれば、周囲のものは例外なく病む。獣が凶暴化し魔獣となる他、土も水も毒となる。何も口にできないどころか空気すら深く取り込まないよう、口鼻を布で覆って歩いた。息苦しさがじりじりと疲労をためる。進むべき道もただの獣道でしかない。木の根は血管のように浮かび上がり、一歩ごと足を引っ掛けてくる。少女のおかげで進むべき方向に間違いがないのだけが救いだろうか。

 辺りは静けさに満ちている。鳥の鳴き声や川のせせらぎ、木の葉が風にさやぐ音など、当然のようにあるだろうものがない。大洋たちが木々をかき分け歩く音、己の息遣いだけがやたらと鼓膜に響く。

 しかしその静寂の中、どろりと粘ついた他者の気配が確かにあった。それは濃い緑と魔素の間に巧みに身を隠し、常にこちらをうかがっている。途切れることのない魔素と森の足枷に、大洋たちがくたびれ果てるその時を待っていた。


「……止まって」


 木の蔓や下草を剣で払っていた先頭のアルドがピタリと歩みを止めた。あとに続く大洋たちも無言でそれに倣う。緊張が走る。


「――上!」


 叫んだのは少女か、パウラか。

 息を整える暇も与えず、頭上から複数の影が踊りかかってきた。アルドの剣が舞う。耳をつんざく魔獣の断末魔があがって、周囲の緑に赤が散った。

 大洋も刀身の短いナイフを天に構える。数は五か、それ以上。視界の端で認めたその姿は猿に似ている。長い手足をもち、素早く木の間を飛び回っていて翻弄されてしまう。見失った一瞬の隙を突かれ、背後から衝撃が来た。引き剥がそうともがき暴れるが魔獣の力の方が遥かに強い。ナイフも、手が届かない。

 熱い。そう感じた瞬間、魔獣が飛んで離れた。

 それは炎だった。魔獣の喚き声が響き渡る。目の前で炎にまとわりつかれたそれが踊り狂う。大洋は咄嗟にナイフを捨て、傍らにあった棒きれを掴み殴りかかった。身の内にも、煮えたぎるものが宿ったかのようだった。肉を潰す気色の悪い感触が手のひらに伝わって、背筋を悪寒が駆け上る。それを振り払いたくて、大洋は叫びながらなおも棒を振るった。

 その狂気を駆け抜けて、正気に返った時には、すべて終わっていた。

 空気は大きくざわめいていたが、早くも元の静寂を取り戻そうとしていた。辺りに転がった魔獣の死骸も、何もかも、あっという間に緑が飲み込むのだろう。棒切れを掴んだまま強ばる指をなんとか剥がす。未だ残る肉の感触を取り払いたくて乱暴に服で拭うが、ただの錯覚に過ぎないと気づくまで少しを要した。

 少女は地に手をつき、倒れそうになる体をパウラが支えている。あの炎は少女の起こした奇跡に違いない。駆け寄ろうとして、その後ろにあるものにぎくりとした。


「アルドさん!」


 倒れ伏すアルドの背が真っ赤に染まっていた。

 戦いの興奮そのまま、慌てふためきアルドの身体を抱え起こそうとした大洋をパウラが止める。脈を確認するためだろう、首に手を当てると同時にうめき声が上がった。


「良かった、生きてる……!」


 安堵したのも束の間、すぐにこの場を離れなければならない。パウラはアルドの傷口を調べて応急処置だけ済ませるや問答無用で大洋に担がせた。代わりに自分は持てるだけの荷物と少女を支える。


「急がなければ、他の魔獣が寄ってきます」


 辺りに充満する血の匂いは強烈で、更には死骸から立ち上る魔素も視界が阻まれそうに多い。もはや気の所為ではなく肌がひりつき吐き気まで催してくるのを、大洋は歯を食いしばって堪えた。震える足を叱咤して、意識のないアルドを背負いパウラたちに続く。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る