第26話

 日が沈みかけ、わずかな食事をとり、あとはもう休むばかりという時間に大洋は少女とぽつりぽつり言葉を交わす。


「聖地って、どんな所?」


 この世界の旅は気楽な物見遊山ではない。荒れた地面に足を取られないよう、吹きつける風に流されないよう、方角を違えないよう、さらには襲い来る魔獣にも注意を払う必要がある。歩く他に意識を割く余裕はない。無用な会話は体力を削ることにもなる。話すとなれば必然この時間しかなかった。


「……高い頂にある世界の狭間。良きものも悪しきものもすべてはそこから始まった。言い伝えにはそのようにあります」


 レコの家では多少生気を取り戻した少女だったが、やはりそれはつかの間の休息に過ぎず、今は朝も夜も冴えない顔色をしている。しかしこうして大洋が話しかけても嫌がる素振りはない。大洋の質問に記憶を探ったり、言葉を選んだり、時に大洋に次を促したり。表情筋はあいかわらずほとんど仕事をしないけれど、代わりに水色の瞳が随分と沢山を物語るようになった。


「ああ、だから『始まりの地』なんだ」


 こくりと少女がうなずく。他には? と大洋が質問を重ねたが、それには首を横に振った。


「それ以上のことは確かではありません。言い伝えは古く、なにが真実か知るものも少ない」

「誰も知らない? 大事な場所のことなのに?」

「……聖地を求め、その目で見ようと旅に出るものは昔からいました。しかし、戻ったものはごくわずかな上、どれも異なる証言ばかりなのです」

「……そう……」


 果たして今目指しているのが本当に聖地なのか、一瞬不安になる。正直にそう吐露すれば、しかしそれは大丈夫だと少女ははっきりと請け負った。


「漠然とではありますが、わかります。目指す先にそれがあると」

「君が、聖女だから?」

「おそらくは」

「昔からそうなの?」

「聖国にいたときは方角だけでしたが。今はずっと近くに、その気配を感じます」


 そういって少女は遠く、山の方へ視線を投げた。迫る闇夜のなか、大洋にはその姿のかけらももう見えはしない。だが少女の目は間違いなく山を、聖地をとらえているのだろう。まっすぐと迷いのない眼差しだった。

 聖国における少女の務めは第一に祈りを捧げること。朝に夕に、時には昼夜を越えて寝食もとらず祈ることもあったという。物心つく前からそんな生き方をして、祈りは少女の一部となった。今聖地を見つめる少女の眼差しには、常にはない熱も込められているかのような気がした。


「終わったら、君は何がしたい?」


 水色の眼差しがそのまま闇に溶け込んでしまいそうで、不思議な焦燥にかられながら大洋は尋ねていた。視線を大洋に戻して、首を傾げるのは質問の意味がわからなかったからだろうか。大洋は質問を繰り返した。


「聖地にたどり着いて、祈りの役目が全部終わったら」

「…………貴方は?」

「え?」

「貴方は、何がしたいのですか?」


 質問を質問で返されたが、大洋は素直に考え込んだ。少女の言葉にはできる限り応えたい。


「僕は、そうだなァ。全部終わったら……あっ!」


 突然声を上げた大洋に、少女も声は出さずとも驚いて目を見張った。


「忘れてた。もしかしら、祈りが終わったら元の世界にすぐ戻るかもしれない」


 旅に出る前、聖国で会った長老は、守り人は世にかえるとあるが詳しいことは分からないと言った。祈り自体がどのように行われるかは少女に任せるしかないが、その後のことは定かでない。少女も、目をパチリとさせながらとりあえず、そうかもしれない、と同意を示した。


「そしたらレコさんに会いに行けない! どうしよう、会いに行くって言ったのに……」


 しまった、と大洋は頭を抱えた。

 絶対とは言わなかったし、レコも好きにすればいいと言っていた。どうしても行けなかったとしても、きっと彼は許してくれるだろう。それでも約束は約束に違いない。なにより、もしレコが待っていてくれていたら。想像するだけで、やってしまったと罪悪感で胃が痛くなる。


「……私が伝えましょう、とても残念がっていたと」


 少し離れた場所にいたアルドが見かねて口を挟んできた。その言葉に光明を見出し、大洋はパッと顔を上げたが、しかしすぐまた眉がハの字に下がる。


「アルドさん、ありがとうございます。……でも、やっぱり……」


 例えアルドがそれを伝えてくれたとしても、約束を違えてしまった事実は変わらないだろう。

 元の世界に帰ることは大洋にとって絶対譲れない最大の目的であり、これを放棄することはあり得ない。それに加えて、自由に決められることですらない。もし儀式が終わってその場で向こうへ帰れる機会が訪れたとして、それをレコに会うために見送った場合に同じことが再びできる保証はないのだ。根拠はないが、できない可能性の方が高いだろうとすら思う。元から大洋がこの世界に呼び寄せられたのも、長老たちの言葉を借りれば奇跡のようなものだったのだ。そう何度も同じことが起こるとは、楽観がすぎるというものだろう。ますます頭を抱え込んでしまった大洋に、少女はかける言葉もなく、ただ呆気に取られて見ているだけだった。

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