第17話

 翌朝、といえるかどうかの時刻、立ち込める霧の頬を撫でる冷たさに大洋は目を覚ました。熟睡は出来ず、繰り返す微睡みに諦めたといった方が正しい。ようやく薄っすらとながら周囲の様子が分かるくらいにはなったかと、大洋は起き上がった。


「どちらへ」


 夜半過ぎから明け方までの見張りをしていたパウラからすぐさま声がかかる。どうしても寝返りが多くなっていたから、眠れていないことは分かっていたのかもしれない。


「ちょっと、顔を洗いに」


 首を伸ばせば見える範囲に細い川がある。パウラが横になっているアルドに視線を送るのと、こんもりと布の塊が身動ぎするのと、ほとんど同時だった。そもそもアルドは野営のとき眠りが浅い。起きようとするアルドを大洋は慌てて押し止めた。


「そこまでしか、行きませんから」

「いえ」

「すぐ戻りますし」

「しかし顔色が」


 昨日の今日で、大洋の分が悪い。二人の言い分も理解している。事実昨日の疲労はまだ色濃く身体に巻き付き、もしかしたら熱も出ているかもしれない。それでもただ、すぐそこの小川に行くだけだ。逆に以前から続く昨日から今日で一体何がそれほど変わったのかと、また癇癪じみた反発心が腹の底でぐづぐづ煮え立つ。

 アルドにも、またパウラにも、そして自分にも。


「本当に大丈夫ですから……」

「私が」


 押し問答を打ち切ったのは少女の声だった。

 いつの間に起き出したのか、手際よく夜具を片付け、行きましょう、と立ち上がった。すかさずパウラの声が上がる。


「それならば私が代わりに参ります」

「構いません」

「では、ご一緒に」

「パウラ」


 初めて聞く種類の声だった。大きくも荒らげてもいない。ただ名前を呼んだだけなのに、そこには抗いがたいものがあった。

 パウラの動きは止まって、少女がちらりと大洋を見る。


「……傷の具合を見せて下さい」


 そう言って川へ向かう少女の後ろ姿を一瞬呆けて見つめていたが、パウラばかりかアルドからも視線が突き刺さっているのを感じ、弾かれるように大洋は後を追った。

 小川は簡単に跨いで渡れるほど細く、その割に水量は豊富だった。流れる水は、目覚ましにはやや過ぎるほど冷たい。差し入れた手が切れるような痛みに一瞬怯むが、今更引っ込められず覚悟を決めて掬ったそれを顔に叩きつけた。なんとか声を出すのは堪えたが、我ながら滑稽な気がする。アルドにしろパウラにしろそれを笑ったりすることはないだろうが、今すぐ隣りにいるのが少女で良かった、と大洋は思った。

 並んで顔を洗った後、少女はその辺りに大洋を腰掛けさせる。頭一つ分くらいの身長差を上手く調整し、こめかみの傷を調べる少女の手もまたひどく冷たかった。――はずが、温かい。視界の端にチカチカと瞬く光があった。


「すごいね、痛くなくなったよ」


 世辞や嘘ではなく本当に痛みが和らぎ、全身にまとわりついていた倦怠感もなくなって、ありがとう、と驚きと感謝を込めて大洋は言った。身体全体、すっきり洗濯されたかのような心持ちだ。


「傷が塞がったわけではありません。普通よりは早く治ると思いますが、無茶はしないように気をつけて下さい」


 どこかぶっきら棒にそう言いながら、少女は包帯を巻き直す。今までも幾度となく本やゲームのような話だと驚かされてきたが、まさか怪我まで治してしまうとは。

 称賛とやや興奮を込めて大洋は少女を見上げたが、そっとか細い息を吐く様子に、それは一転してきまり悪さになった。


「……ごめん。疲れるのに、無駄なことさせて」


 祈りの奇跡を起こすたび、少女は自らの体力を削っている。それがどんな、どれほどのものか、大洋には分からない。しかしあえて今、その力を使ってくれた意味は分かる。頭の傷もその他も、旅に支障が出るほどのものではなかったのに。

 無口だし、無表情だし、大体は素っ気ないばかりだけれど、冷たい子じゃないのだ。


「……あなたも、無駄なことをしたでしょう」

「え?」


 縛られた後の残る手首に傷薬を塗り込みながら、少女が言った。


「あの罪人に肩入れすることは、無意味なことです。今回は無傷で命も助かった。少しは大人しくしているかもしれません。しかしそれは一時のことです。きっとまたすぐ、同じような罪を繰り返す」

「そんな、」

「貴方が言ったのでしょう、世界が悪いのだ、と。貧しさは泥のように身にまとわりつくもの。そう簡単に逃れられはしない」

「………」


 少女の厳しい意見が真実かどうか、大洋には判断がつかない。貧しさやそれ故の犯罪は、多分大洋の元いた場所とそう大きく異なるものではないと思う。ただ、元の世界でもそれらは大洋にとって、別世界の話だったのだ。知識として知っていただけで、いざ直面して無思慮を晒す自分が恥ずかしかったし、情けなく惨めだった。


「貴方は、私達と違う世界から来たのですね」


 唐突な言葉に視線を上げると、手当を終えた少女と目があった。


「この天の地とは異なり、暖かく豊かで、恵まれたところなのでしょう。貴方を見ていて、そう思いました」


 今更ながらの言葉は、鋭利な刃となって大洋を刺した。居た堪れなさに眉を下げる大洋を、いつも変わらず美しい水色の目が見つめる。言葉は大洋を刺すが、眼差しはしかし、ただ大洋を見据えるだけだった。

 優しさも厳しさも、何も余計なものはない。ただ純粋な、少女から大洋へ向けた気持ちがあった。


「恵まれていることは罪ではありません」


 知りたいと思います、と少女は大洋にをした。


「どのような暖かさが、貴方の世界にはあるのですか?」

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