第15話
喉が、風圧で詰まる。音もかき消された。耳から頭が破裂しそうな痛みが走り、天地が分からない。布越しのおぼろげな光は頼りなく明滅するばかり。ただ逃げなければ、どこかへ、という思いだけに支配されて地を這った。
ふ、とその時、大洋の不自由なばかりの肉体で唯一正しく働いていた嗅覚が、一筋の柔らかな香りをつかみ取った。他の感覚を補うように鋭敏になっていたのかもしれない。普段意識もしないのに、大洋には不思議な確信があった。少女がそこにいる。
「――マサヒロ様!!」
ウワァン、と膨張した音が耳に飛び込んできた。アルドの声。
「マサヒロ様、ご無事で……!」
指が後頭部に回り、目隠しを解く。急に暗がりから解放された眼球が辛い。ぼやけた輪郭がゆっくりとあらわになっていき、アルドとパウラ、そして少女の姿がそこにはあった。押し寄せる安堵の思いに、視界がまた怪しくなる。
「みんな、……ごめん、なさい。僕が」
「安易におそばを離れた自分の落ち度です。申し訳ございません」
腕の拘束も解かれ、二人の手で丁重に身を起こされる。あちこちが痛むせいで、正確な状況が分からない。一際痛みがひどい頭に手を伸ばすとぬるりとした感触があった。
「触らないで下さい。これで抑えて」
パウラが手を掴み、代わりに布をあてがう。ジワ、と赤いものが染み込んでいくのが分かった。抑えている手が細かく震える。二人にもそれは伝わっているのだろう。歩けますか、と片側を支えるアルドの問にうなずくのがやっとだった。
足元に転がるものにつまずかないよう、ゆっくりと足を動かす。周囲は瓦礫が山となり、辛うじて何か建物があったのだと分かる壁や柱の残骸があるだけだった。わずかに焦げたような匂いもするが、火は上がっていないのは幸いか。眼前に広がる暴力の跡に、背筋がぞっと粟立つ。
騒ぎを聞きつけ集まった人たちが遠巻きに大洋たちを見ていた。それを遮るように少女が前に立つ。傷の手当を、と伸ばされた手から、大洋は反射的に身体を反って逃げていた。水色の目が、大洋を見た。
「あっ、いや……、その、汚れるから……」
慌てて口をついて出た言葉は本心に違いない。自分の今の有様はひどくて、きれいなものに触れるのをためらう気持ちは事実だ。しかし、それ以外のものも――
「離れて!」
ガラガラ、と瓦礫が崩れ落ちる音がして、アルドが庇うように背後に立つ。ふらつくのをどうにか堪え、振り返った先にいたのはあの男だった。隣にうずくまっているのは女。男と、そして女とは初めて目が合う。砂にまみれ乱れた長い髪の向こう、黒々とした目だった。
「……畜生ッ、てめぇ……」
男も抑えた頭から血を流していたが、大洋ほど弱っている様子ではなかった。ギョロギョロと血走った目だけで素早く周囲を見回したかと思うと、一瞬の迷いもなく身を翻し駆け出した。後を追う気はなかったのだろう、アルドの身体は動かない。残された女はうずくまったまま、ジリジリと後ずさる。そこからまた少し離れた地面にはもう一人の男、坊やなどと呼ばれていた若い男が横たわっていた。血は流れていないが、気を失っているらしくピクリとも動かない。
不意にアルドの右腕が動いた。同時に女の引き攣れた声が上がる。
「動くな」
立ち上がりかけた女の足のすぐ横、小さなナイフが床へ深々と突き刺さっていた。腰を抜かしたのだろう、女は再び床へへたり込む。
「少しだけお待ち下さい。すぐに済みますから」
そう言ってアルドは女の元へ歩いていく。床に刺さったナイフを抜いて腰に戻すと、何気ない、しかし容赦ない動作で女を腹ばいに倒した。女の唸るような声が上がるのにも頓着せずなにかを調べているようだったが、目当てのものはなかったのか、仕方ないとばかりに立ち上がり剣を抜いた。
「――ま、待って!!」
足が勝手に飛び出して、アルドと女の間に倒れ込む。突発的な行動にアルドと大洋、双方ともに驚いたが、一瞬で気を取り直したアルドは大丈夫ですよ、と大洋に言った。
「役人が来るまで逃げないようにするだけです。命までは取りません」
「に、逃げないようにって。じゃあ、どうして剣なんて、」
「生憎と手元に縄などがないので……。足の腱でも切っておけば問題ないでしょう」
明快なアルドの応えに、大洋は絶句した。足の腱など切ってはすぐ治るものではない。部活で毎日走っていた大洋には身近な話で、経験はなくともどれほど痛いか、治るまでどんなに大変か、また治ったとして前のように動けるかどうかもわからないとか、その手の話はいくらでも聞き知っていた。
まるで天気の話でもするかのような、何気ないアルドの声色だった。
「そこまで、しなくても」
「守り人様を害したのです。許されることではありませんし、命を取らないだけでも破格の扱いと思え」
後の言葉は女に向けたものだった。文字通り上から見下げるアルドの視線に、女は怯え後ずさりながら、しかしはっと気づいたような声で言った。
「守り人様、だぁ……?」
肩越しに様子をうかがう大洋の視線と、女のそれが交差した。落ちくぼんだ真っ暗な目が大洋を上から下まで凝視した後、それはぐにゃりと大きく歪んだ。
「このガキが、守り人様だって? そいつは愉快だ、笑える話だよ!」
異様なほど顔を歪ませて、女は本当にげらげらと笑い出した。大洋の方が驚いて思わず身を引く。
「黙れ。口を開くな」
不快そうに眉を寄せ、アルドが手にした剣の切っ先を女に突きつけた。
「アルドさん!」
「おやまぁ庇っておくれかい、守り人様が! えぇ、お優しいこった!」
げらげらと、痰の絡んだ空咳のような不快で下卑た笑い声があたりに響き渡る。
「こんな婆にも情けをかけてくださるとは、こりゃ確かに本物の守り人様だぁ」
長い髪を振り乱し、お優しいねぇと繰り返しながら笑う女には、最早逃げる意思はないのだろう。突きつけられた剣先を意にも介さず、黒い目を弧にしてぐいと大洋に身を近づけた。守り人様、と大洋に投げつける声には明らかな嘲りが込められている。
一体何がおかしいのか、笑い続ける女の様に狂気すら感じて、大洋は背筋の薄ら寒くなる思いがした。正直に言えば今すぐ逃げたいが、それは駄目だと分かっていた。アルドの視線は一層冷え冷えと女を刺す。剣先もぶれず、下がることもない。ここで大洋が少しでも距離を取れば、きっと一片の容赦もためらいもなしにアルドは女を斬り捨てるのだろう。
「守り人様、守り人様よォ。あたしだって言い伝えくらい知ってるよ。ここじゃ誰だって寝物語に聞いて育つもんだ。ひもじくなったら祈るんだって。祈ればきっと守り人様が助けてくださる、温かいおまんまをくださるってね。ありがたい話だよ、ねェ?」
「たわ言です、マサヒロ様」
まるで喧嘩に負けた子供だ。悔し紛れに相手を悪し様に罵って、せめて己の鬱憤を晴らそうとする子供。
そうと分かっていながら捨て置けないのは、女の目玉が黒かったからだ。真下から大洋を睨めつける黒々とした目玉が、あまりに卑しく醜く、まっすぐと憎しみでもって大洋を貫いてきたからだ。
アルド様、とパウラの声が聞こえた。
いつの間にか縄を手に駆けつけたパウラが、あっという間の早さで女を縛り上げる。痛いじゃないかと文句を言いながら、なおも女は笑い続ける。
「お縄まで頂戴するとは思いもしなかったけどサァ、ありがたくって涙が出るよ」
自分で言った言葉が面白いとばかり、げらげらと笑う。
まさかあの言い伝えの守り人様にお会いできるなんてね! あたしなんかがさ!!
「ありがたいこった、ねぇ? 出来ればこうなる前にお会いしたかったよ」
まぁこれもめぐり合わせだ、と女は言って、ようやく笑うのを止めた。
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