第13話
「貧相なガキだな。もう一人は女だったんだろう、そっちの方がよかったんじゃねぇのか」
「馬鹿野郎が。あんまり上等だと客のほうが怖気づいちまって、返って売れねぇんだよ。こういうどこにでもいそうな地味なやつのほうが、手っ取り早く売りさばくにゃ向いてるんだ」
この商売のコツってやつだ、と下卑た声で男が言い捨てた。大洋たちに毛皮を売った、あの胡散臭い男だった。本当かよ、と先の男よりは少し年若い別の男の声がやや不満そうに応える。
「さっさと売れるのが一番だ。手こずってたら足がついちまう」
また別の一人が投げやりな感じで言った。今度は女の声だった。
「おっかなそうなツレがいたんだろう、なら尚更だよ。そういうあんたの方はちゃんと手配できてんだろうね、坊や?」
「年増が、俺に偉そうな口をきくんじゃねぇ。当然だろうが」
坊やと揶揄されて若い方の男が女に噛みつく。呵呵と笑い飛ばす女の、いかにも肝の据わったずる賢さが声からにじみ出ていた。顔が見えなくとも、それくらいは見当がつく。逆に言えばそれくらいしか分からない。何しろ大洋は目隠しと手足の拘束の上、ご丁寧に口にもたっぷり布を噛まされ、床に転がされているのだから。
商人の男に案内されて薄暗い物陰に入った瞬間、後頭部に衝撃を受けて目がくらんだ。痛みよりは脳を揺さぶられる衝撃で前後不覚に陥り、気づけば目の前は暗く、身動きも取れず声もろくに上げられない状況だった。感覚的にそう長い時間は経っていないと思うが、周囲の様子はまったくうかがえず分からない。
大洋は騙されたのだった。騙されて、襲われて、売られる。
一瞬にして血の気が引く。引きつけのように震えが全身を駆け巡った。布がなければ舌を噛んでいたかもしれない。恐怖で胃の底からせり上がってくるものがある。さっき食べた串焼きだろうか。焼き立てで美味しくて、あの時からどれほども経っていないはずなのに、なんてことに。
「――おい、起きたんじゃねぇのか」
若い男の声がゾッとするほど冷たく響く。反射的に背筋が縮こまった。
「放っとけ。買い手が来るまで転がしておいたって、死にゃしねぇ」
「……まだ大分かかる。畜生、静かにしてろよ。騒いだらタダじゃおかねぇからな」
横に倒れている肩を蹴飛ばされ仰向けに転がった。きっと大した力は込められていない。しかし視覚を奪われた状況での突然の衝撃に、大げさなほど身体が跳ねた。チッ、と舌打ちをして、もう一人の男が忌々しそうに吐き捨てる。
「オタオタすんじゃねぇよ。これだから小物は」
「は、誰が小物だァ?」
「テメェだ、テメェ。買い手が遅いのもテメェの差配が悪いからだろうが。オタついて売りモンに傷をつけるな。素人との仕事はこれだから嫌ンなるぜ」
「歳食ってるってだけで偉そうな口きくんじゃねぇ、糞爺が。テメェもまとめて売っ払ってやっても良いんだぜ」
「やれるもんならやってみろ、この小物が」
徐々に鋭くなる言い争いが、ピリピリと肌を刺す。大洋は目隠しの下、ギュッと眉間に力を込めて来るかもしれない衝撃に構えるしかなかった。たとえ身体が自由であったとして何ができるとも思わないけれど、見えないことがひたすらに恐怖心を煽る。
「静かにしなァ」
一触即発、言い争いを止めたのは嗄れ間延びしながらもドスの利いた女の一声だった。
「あんたら二人共だ。取引前にじゃれてんじゃないよ」
そんなんじゃ売れるもんも売れないよ、と女は言う。沈黙が流れたが、それは明らかに先ほどの鋭利さを失っていた。男二人も互いに思うところあったのか、最初からただの脅し文句の応酬だったのか、ひりついた空気がそろそろと矛を収めていく。
「……まったく、男ってのはいつまで経ってもガキでいけないね」
若い男も年かさの男も、明らかな嘲笑に今度は乗らなかった。
「時間までまだある。ちょいと外で頭冷やしてきな」
「……俺がかよ」
「この爺はツレってやつに顔を見られてる。それにオツカイは坊やの仕事って相場が決まってんのさ」
ケッ、と吐き捨てて若い男は足音も荒く部屋の外へ出て行った。
揉めていた二人の内片方がいなくなりわずかに息を吐いたが、安心するには程遠い。身の上に迫った危険に変わりはなく、震えは止まらないし背を伝う脂汗も同じく。寒くもないはずなのに悪寒が止まらない。
(売られるって、一体どこに。どんな人に。……もしかして、奴隷に?)
奴隷の文字が頭に浮かんだ瞬間、喉の奥がぎゅっと詰まった。胃が裏返しになるような悪心を堪えきれず、しかし口は布でふさがれている。逆流してきたものは出口を求めて狭い鼻孔へ。呼吸が止まり、こめかみが熱く、焼き切れそうになる。轟々と耳が鳴り、暗い目の奥にチカチカと火花が散った。
意識が遠のく。
「――……、息をしろ!」
ドッ、と背中、肩甲骨の間に衝撃が走る。体育の時間、柔道で下手な受け身を取らされた時のようだ。
だがその衝撃で白目をむいていた大洋の身体は正常な反射を取り戻し、今度は何に阻まれることなく吐瀉物が床に撒き散らされた。
「ッ、ゥ゙、え……ッ」
吐くものと吸うものとで呼吸はなかなか整わず、耳の裏でどくどくと血が全身を駆け巡る音が聞こえていた。大げさでなく、死という文字が傍らにあった。
ようやく肺が酸素を取り込むことを思い出すと、麻痺していた感覚も少しずつ戻ってくる。霞がかった意識であっても、まとわりつく吐瀉物には生理的な嫌悪を覚える。半ば本能でそれから逃れようとするが、しかし手足の縛られたままで思うように動けず芋虫のように蠢くしか出来ない。
「――ッ!」
いきなり髪を引っつかまれ、仰け反った。また一瞬息が詰まる。汚いねェ、という女の声はごく近かった。
「この程度で縮み上がって死にかけるとは、とんだ上物を仕入れたもんだ」
本当に売れるのかねぇと遠回しな嫌みに、男は舌打ち以上は返さない。女の手が顔に触れて、未だ視界が奪われたままの大洋はまた大きく身を震わせた。それに構わず女は顔についた吐瀉物を乱暴に拭い、ついでに顎を掴んで持ち上げて、品定めを始める。
「どこかイイトコの坊っちゃんのお忍びってとこかい。ついてないね、あんた」
「…………」
「残念だけど、これも生きるためだからさ」
生きるため、と大洋はオウム返しにつぶやいた。意外な反応だったのだろうか、女が笑いを含んだ声でそうだよ、と返した。
「あたしらも好き好んでこんな商売やってんじゃない。食うに困って、やむを得ずってことさ。恨まないでおくれな」
「……どうして……」
「どうしてもこうしてもないよ。あんたもあたしも、ただのめぐり合わせ。それだけのことさ」
諦めな、と言い捨てて女は手を離す。支えを失い、大洋の身体は力なく床へ崩れ落ちた。
心臓はまだ荒々しく脈を打っている。部活の練習などとはわけが違う辛さは、死への恐怖のせいだろうか。冷たく硬い床の感触がほんの少し、ありがたかった。まだ喉の奥が引き攣れたような強張りが残って、呼吸一つに体力を奪われていく。指一本も動かせないほどの倦怠感が大洋の身体を包んでいた。
めぐり合わせ。
めぐり合わせで、騙され、襲われ、売られるのだろうか。それがこの世界に呼び出された大洋の、運命というものなのだろうか。
ごめん、と虚ろなまま大洋はつぶやく。あまりにも小さなそれは、誰の耳に届くこともなく溶けて消えた。
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