第10話

 翌日は市が開くのに合わせて、いつもより少しばかりゆっくりとした朝支度だった。荷物とロバ(のようなもの)を出発まで宿に預かってもらい、四人身軽な格好で雑踏を歩く。

 この世界で初めて訪れた市は、大洋が想像していたよりずっと人も多く活気のあるものだった。夏祭りの出店のような簡易な店が所狭しと道に沿って並び、幅が狭いところでは人とすれ違うのがやっとであった。人並みに揉まれそうになる大洋をアルドが庇う。


「人が多いですね、はぐれないようお気をつけ下さい。聖女様も」


 万一はぐれたら宿に戻って下さいと言われるものの、果たして土地勘のない初めての土地で出来るだろうかと一抹の不安がよぎる。迷子の可能性を考えていると、ふと脳裏に慣れ親しんだ四角い機械が思い浮かんだ。携帯があれば、と。

 大洋はこの世界に身一つで来た。学生服以外、元の世界に紐づくものはなにも持っていなかった。携帯電話も、もちろん。

 中学に上がった頃に手にして以来一時はコレなしに生きていけないのではと思うほどだったのに、今思い出すまで綺麗さっぱり忘れていた。他に考えることや疲労でいっぱいで思い出す余裕がなかったということだろうか。

 戻ったら、と大洋は考えてみる。元の場所に戻ったら、きっと携帯には山のような数の通知が来ていることだろう。家族に友人に、多分教師たちや部活関係からも。顔が広い方ではないが、いずれも関係は悪くない。心配しているだろうな、通知全部見るの大変だろうな、……本当に、帰れるよな。

 重しをつけて奥深くに沈めて、普段努めて考えまいとしていたことがのっそり浮かび上がりそうになって、大洋は慌てて首を振った。旅に出てから少しずつ内側に積もっていく暗いものがある。引きずられては、いけない。

 ふいに、強い香りが鼻孔を刺激した。何かを焼く、香ばしい匂い。と、反射的に大洋の腹が大きく声を上げた。アルドと目が合う。ばっちり聞こえてしまったらしい、思わず顔に血が上る。その様子に少し笑って、アルドはすぐ近くの屋台で串焼きらしきものを人数分購入してくれた。大洋には特に大きいものを。


「出来立てはなんでも美味しいものです」


 その言葉通り、熱々の肉は成長期男子の腹を満足させるに足るものだった。食感からして鳥の肉だろうか。濃いタレが満遍なくかけられて、皮もパリパリと実に美味い。自分でも驚くほどペロリと平らげてしまった。

 もしかしてアルドは、大洋の気鬱を多少なりとも察していたのだろうか。食欲が満たされれば多少の憂いは吹き飛ぶ。つい先ほどまで胸のあたりに渦巻いていた情けなさや不安や、負い目のようなものが薄れているのを感じて、我ながら単純だと大洋はやや呆れたが、考えてもしょうがないことだとも思えた。もちろんどうにかしたいが、今すぐどうにかできることでもない。せめて今は、今できることに集中しよう。

 そう意気込んで先を行くアルドの背を見失わないようにと見つめるが、絶え間なく行き交う呼び込みや値切り交渉などの声についキョロキョロと周囲を見回してしまう。そしてそれは、少女もまた同じようなものだった。いつもは何事にも関心の薄そうにしている彼女にも、市の様子は珍しいものらしい。そうして足元が疎かになったところに体格の良い男が強引にすれ違おうとして、少女の身体が前につんのめった。


「危ないっ」


 咄嗟に腕が伸びた。大洋の胸に少女が飛び込む形で受け止める。

 軽い。身構えていたよりも遥かに軽い衝撃にかえって大洋の方がたたらを踏んでしまう。慌ててより強く抱え込む事になってしまって、その薄さにまた、大洋は驚いた。絞り出すようなか細い声が腕の中から上がる。


「だ、大丈夫っ?」


 大いに動揺しながら、ごまかすようにのぞき込むと、少女の水色の目が見たこともないほど大きく見開かれて、真正面から大洋の眼差しとぶつかった。


「聖女様!」


 今度はパウラが叫んだ。大洋から引ったくるようにして少女の正面に回るやいなや、身体に異変はないかパタパタと撫で回す。まるで汚いものに触れたかのようなその扱いにややムッともしたが、それよりは自身の早鐘を治める方が先決だった。顔が熱い。


「大丈夫ですか?」

「あ、はい……。僕は、はい」


 さっきから、アルドの顔をまともに見られないことばかりである。

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