第9話

 この天の世には、一見なにもないところから火を起こしたり水を湧き出させたりといった、奇跡と呼ばれる術がある。希素とは大気中に漂う奇跡の源であり、清浄な希素は身体にも良い。しかし周囲の影響を受けやすく、すぐに変質してしまう不安定なものでもある。そして魔素とは、ひどく穢れた希素のことを指す。

 空気と同じく生き物は希素、あるいは魔素を無自覚に取り込むが、魔素に長く触れていると精神的にも肉体的にも病んでしまい、ひどい時には理性を失い狂うこともある。魔素を多く取り込みすぎた獣のことを、人は魔獣と呼んでいる。


「その香辛料を一袋いただけませんか、ディーボの肉と交換で。魔素は抜いてあります」


 たどり着いた街の安宿で簡素な食事をとった後、パウラが厨房に立つ男に話しかけていた。ちなみにディーボとは、猪に似た獣のことらしい。生息域は広く、食卓に上がりやすい。


「……肉次第だな」

「こちらです」


 携帯する食料の管理はパウラが一手に引き受けている。肉や魚は都度調達も可能だが、調味料の在庫が心許ないということだった。街には時折市が立つからそこで購入することもあるが、こうした直接交渉が上手くいけば手間はその分省ける。


「きれいに魔素抜きされてる。悪かない」


 魔素抜きとは血抜きのようなもので、生きている内に獣や魚、野菜などが取り込んだ魔素を収穫の際に取り除く処理のことをいう。少量ならばそのまま食べても問題はないが、きれいに取り除けばその分品質は向上する。

 肉の質を確認した厨房の男は満足そうに言って、小袋にいれた香辛料をパウラに差し出した。交渉は無事成立したらしい。


「最近は街の近くの獣や魚でも魔素の多いものばかりでなぁ。これだけ抜けてればありがたい」


 よほど難儀していたのだろうか、声も明るくおまけだと干した果物をいくらかよこした。

 魔素を抜く方法は、基本的には放置でいい。風通しのいい場所で行うなどの条件はいくつかあるが、難しい作業ではない。しかしそれは含まれる魔素が少ない場合に限る。生き物がその内に溜め込んでいた魔素が多ければ多いほど時間はかかって、抜けきる前に腐ってしまうことさえある。ゆえに魔獣、つまり魔素を取り込みすぎた生き物の肉などはほとんど食用にできないのがこの世界の常識なのだが、それを可能にするのが少女の存在、聖女の起こす祈りの奇跡であった。

 希素を使い起こす奇跡には、様々なものがある。人によって得意とするものが違うし、まったく奇跡が起こせない者も珍しくはない。その中でも祈りの奇跡の力はこの世に滅多と現れるものではないという。

 祈りの奇跡は、穢れを浄化する力。その力をもってすれば食物の魔素抜きも容易だが、使いこなすには生まれついての素質を必要とする上、厳しい修練を積まねばならない。その才能が確認されたものは年令に関係なく、すぐにも教会に預けられて学ぶのが常とされる。そんな選ばれた者たちの中で、さらに聖女の力は他と比較にならない。厨房の男は先ほどの肉が魔獣のものだとは決して気づかないだろう。


「それで足りますか? 他に必要なものは?」

「食料の方はしばらく大丈夫でしょう。そろそろ寒さに備えて毛皮など手に入れば良いのですが」

「確かに。市をのぞいてみますか」


 街に到着したのが遅く、ほとんどの店は終いであったが、ちょうど市が開かれている気配があった。市は数日続く。明日の朝であれば色々とのぞけるだろう。大きくない街では貨幣よりも物の交換を望まれることも多い。道々狩っていたものも整理できるでしょう、とアルドが言った。

 それらのやり取りをはたで聞きながら大洋は、重い石でも飲み込んだように腹の奥がずしりと沈むのを感じていた。

 アルドは頼もしい護衛である。旅に出る前、長老たちの言った通りの強さで大洋たちを守ってくれている。パウラもまた、日々の細々としたことを抜かりなく整えてくれている。大洋にだけあたりがキツいところもあるがそれ以外で差をつけたりはしない。そして少女はその奇跡の力でもって旅を助けている。穢れを浄化する祈りだけではなく、火種なしで瞬時に火を起こしたり落石などの障害物を砕いて取り除いたり、それ一つで旅の負担は普通に考えるよりも格別に少なくなっているはずだ。

 そんな中、大洋だけが何もできない。

 自分の身ひとつ守れず、料理だとか他の色々、何にせよ分からないことが多すぎて誰かを手伝うこともろくにできない。

 アルドはそのことに文句を言ったりはしない。パウラでさえも。少女はそもそも大洋の役立たずっぷりなど興味すらないかもしれないが。それでも負担になっているのは間違いないだろう。つい最近になってようよう体が慣れたか、どうにか皆に遅れずついて歩けるようになったくらい。


 ――本当に僕は、必要なんだろうか?


 長老は、この世界を救うのに大洋の存在が不可欠だと言った。守り人であり、守り人の祈りは特別なのだと。しかし少女に習って同じように祈ってみても、奇跡など微塵も起こりはしない。元より、一体何に対して祈るべきなのかも、大洋には分からないのだ。

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