第8話

 と、思っていたが、昼をいくらか過ぎた頃、緩やかに起伏する丘陵地の向こうに街のかげが見えた。これならアルドの予測通り、日暮れ頃には街に入れるだろう。

 二日続けての野宿は免れそうだと、大洋は心から安堵した。かすかに見える街の規模は小さく、宿もあまり期待はできなさそうだが、納屋の下でも借りられればそれだけでありがたい。雨の心配はいらないし、なにより見張りをしなくて良いのだから。

 大洋がひどく疲弊している理由はもう一つ。文字通り身の危険である。

 人気のない街道には、時折獣が出る。街中では流石に見かけないが、森の中を行くときなどは全員で警戒する必要があった。

 大洋が元いた場所でも、熊や猪など大きく危険な動物が街中で目撃されることは時折あった。しかしそれはあくまでも異例のことであり、基本的に獣と人間は棲み分けが出来ていると言っていいだろう。

 しかしこの世界は違う。獣は明確に人の生活を脅かしているし、こちらの命を奪おうというはっきりとした意思でもって襲いかかってくる。食べるため、生きるために襲うのだ。初めてそれに遭遇したとき、大洋は腰を抜かした。情けないが、無理もなかった。


 聖国を発って三日目のことだった。

 それほど深くはない森の中、低木の茂みから強襲してきたのは猪のような、四足歩行の獣だった。毛皮に覆われているが背中の部分がハリネズミのように鋭く尖っている。勢いのまま大洋たちに襲い来るその獣を倒したのは、先頭にいたアルドだった。

 囮のつもりか獣に負けない勢いでその鼻先に躍り出ると、やはり獣はアルドに向かって一直線に突進した。エンジン全開の車のようなその勢いを紙一重、ヒラリと交わしたかと思えば、すれ違いざまいつも腰にあった剣で一刀のもと斬り捨てたのだ。斬り落とされた獣の首は一度地に落ちて大きく跳ね、最初に尻餅をついて倒れた大洋の足元、赤黒い血とともにごろりと転がった。

 その様はあまりにあっけなく、また鮮やかすぎて現実味が湧かず、しばし大洋は茫然自失していた。それを現実に引き戻したのは強烈な血の匂いだった。ぶわ、と一気に立ち込める生臭さは、色に見えそうなほど凄まじい。

 いや、事実見えていたがあった。強い火を焚いたとき風に巻き上がる火の粉のようなものが、倒れた獣の死骸から立ち上っていたのだ。

 鼻孔を突き刺す生臭さに喉の奥からせり上がってくるものを感じながら、しかしそれも忘れて大洋は不思議な火の粉に見入っていた。


「魔素です。あまり近寄ってはなりません」


 そう教えてくれたのはやはりアルドだった。見事な剣を鞘に収めながら大洋へ手を差し伸べてくれたが、生憎腰が抜けてすぐには立てそうにない。抱えられ、半ば引きずられるように後ろへ下がる。


「魔素?」

「魔獣ですから。そうひどいものではなさそうですが、いかがですか? 肉のいくらか食べるに回せれば助かるのですが」


 問いかけは少女に向けてのものだった。パウラもアルドのそれを退けない。少女が無言で獣、魔獣の死骸に近づく。死骸からは未だ火の粉、ではなく魔素とやらが立ち上っており、アルドの言を借りればマズいはずだが止める声は上がらない。無言のままなにやら見分を終えた少女は、問題ありません、と答えた。


「ありがたい。では、お願いいたします」


 溢れる血を上手く避け、少女は魔獣の死骸のすぐそばにひざまずく。そして両の手を組み祈りを捧げ始めた。

 未だ腰の抜けたまま見守っていた大洋は、不意にすぅ、と鼻の奥が爽やかなもので洗われるのを感じた。その場に充満していた生臭さが一掃される。風だろうか、と周囲を窺うと確かに木々が揺れていた。しかしその動きになんとなく違和感を覚える。じっと目を凝らしてやっと分かった。風は、少女を起点としていた。

 少女の長い銀の髪と遊ぶ風は、やがてまばゆいものとなった。風が目に見えるなどとは馬鹿な表現かもしれない。しかしそうとしか、大洋には言いようがなかった。遠い夜空の星のように優しく瞬くそれが空気と交わり、死骸から立ち上っていた魔素をまばゆさでもって包み消していく。大洋が吸い込んでしまった生臭さをも体内から洗い流すような、清らかな風。

 半ば夢見心地で見つめていたそれは、時間にしてわずかなものだっただろう。いつの間にか収まったそれが、ひどく名残惜しい気がした。


「――終わりました」

「ありがとうございます。後はお任せ下さい」


 一礼し、アルドが解体のため短剣を片手に死骸に取り掛かった。道の端に腰を下ろした少女へ、すかさずパウラが水袋を差し出す。礼を言って受け取る表情は変わっていないが、疲れたのかもしれない。細い息が少女の口から漏れた。


「……なにか」


 多分それが、少女から大洋へ初めてかけられた言葉だ。自覚のないまま熱心に見つめていたらしい。寄り添うパウラが訝しげな表情で見てくるのも、今ばかりは気にならなかった。

 初めてこの世界に来たとき。初めて目を開いたとき。その時とまったく同じ心地で、臆することなく少女の水色の目を真っ直ぐ見つめたまま大洋は言った。


「すごく、きれいだった……」


 思えばパウラの視線が厳しくなったのはその辺りからだから、やらかしたと言えば、やらかしたのだろうか。

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