第4話

 ふと暗闇に意識が浮上した。

 あまりに深い周囲の闇に、本当に自分が目覚めたのかどうか分からずに戸惑う。こわごわ腕を伸ばして、すると壁だろう、硬いものに触れる。自分が寝ているのはベッド。これも硬い。そうだ、硬いベッドだったんだ。

 掌の感触が鮮明になるにつれ、徐々に意識を落とす前のことが蘇ってくる。

 見たこともない人たち、訳がわからない話、不思議で美しい少女――。

 と、同時に蘇った不安にぐぅっと胃が痛む思いがした。有無を言わさぬ生理現象に不安も一瞬飛んで、大洋はベッドから飛び起きた。

 暗闇は相変わらず暗闇だが、いくらか目も慣れてきたらしい。カーテンのない窓からは外からの光、恐らく月だろう、がわずかに差し込み、ものの輪郭が分かるくらいには視界を助けてくれる。

 そろそろと忍び足で扉までたどり着き、音を立てないようにそっと開いた。つもりだったのだが。


「なにか、お困りですか」


 正直に白状すると、漏らすかと思った。

 真っ暗闇の中、開いた扉のすぐ隣に何かがいて声を発したのだ。驚かないはずがない。とっさに手で悲鳴を上げるのを防いだ自分はすごい、と大洋は思う。

 半泣き状態で硬直している大洋に、声を発したものは素早く察したらしい。サッとその場に片膝を折った。


「申し訳ございません、驚かせてしまったようですね」


 カシャンと冷たい金属の音がする。扉の外、わずかにともされた明かりに一人の青年が浮かび上がった。金属の胴衣を身にまとい、腰には剣を帯びているらしい。剣呑なその身なりに思わず大洋が後ずさると、落ち着かせるためだろう、眼の前の人物はわざとらしく両の掌を広げて見せた。暗がりの中、少しばつ悪そうに緩めた表情がうかがえて、大洋もゆるゆると緊張を解く。


「……すみません、僕、驚いて」

「急にお声をかけた自分が悪かったのです。無礼をお許し下さい、守り人様」

「いえ、そんな……、あの、貴方は誰ですか?」

「アルドと申します。守り人様の警護を任されました」


 そう名乗って、アルドとやらは頭を下げた。恐らく大洋よりずっと年上で、屈強そうな青年にそんな丁重な礼を取られては非常に居心地が悪いが、予想に反してあっさり顔が上がる。青年はそれで、と再度大洋に尋ねた。


「なにかお困りのことがございましたか」


 問われて急速に尿意が戻ってくる。気恥ずかしさに大洋は言い淀んだが、引けた腰にすぐさま覚醒の理由に思い至ったのだろう、ああ、とアルドがうなずいた。


「用足しであれば、ご案内いたします」

「あ……、はい、お願いします……」


 察しの良いアルドに先導され建物の外に出ると、空気は少しひんやりと冷えていた。夜の闇は変わらず深いが、頭上から半月以上満月未満といった大きさの月の光が降り注いでいるため、整備された道を歩くのにそう苦労はない。が、案内された離れの便所は田舎の汲取式のようで、普段目の当たりにすることもないその粗末さは、夜の暗さも相まって更に心細さを助長した。


「支障はございませんでしたか」

「大丈夫です、ありがとうございます」


 それでもとりあえずの危機を脱したことで、大洋は大きく息を吐く。次いで冷たい外の空気を肺に取り込むと、鼻の奥から胸までがひんやりと大きく膨らみ、目が覚める思いがした。瞳の奥が乾いてパリパリする。

 すぐ元の部屋に戻るのだろうと思っていたが、アルドは静かにたたずみ大洋の様子をうかがっていた。


「他になにか、困ったことはございませんか?」


 問うたアルドと目が合う。か細い月の光ではその表情の詳しいところは分からないが、声は静かに落ち着いていて、恐らくそれもいくらか緊張を解いてくれているのだろう。昼に会った聖職者らしき人たちよりよほど力強そうなのに、ずっと威圧感がない。その様子は親しい年上の従兄弟を思い出させて、唐突に人恋しさが強くなる。

 不安で心細くて人恋しくて、気づけばポツリとこぼしていた。


「……全部」


 沈黙が大洋を促す。


「もう全部、わけ分かんないです。なんで僕はここにいるんだろうって……。守り人様だからって昼間に教えてもらいましたけど、全然分かりません。守り人様ってなんですか。世界を救うって、そんな事言われても困ります。漫画みたいに不思議な力に目覚めるとか、そんな感じでもないし、っていうか本当、全部いきなり過ぎて」

「戸惑っていらっしゃるのですね」

「そりゃあ、もう、そんなの……」


 当たり前じゃないかと叫びたくなるのをぐっと我慢する。一気に捲し立てられて、しかしアルドは落ち着き払っていた。相反する自分の取り乱し具合にじわりと気恥ずかしさを覚えたが、それ以上に大洋の中は不安でいっぱいだった。


「帰りたい」


 一度口にしてしまえばそれしか考えられなくなって、再び大洋は言い募った。


「帰りたいです。帰れますか。帰して下さい、家に」


 マンションの一室。家族と暮らす、ごく普通の大洋の家だ。特筆すべきところなどなにもない。だが今はなにより恋しい。

 どのくらいの時間眠っていたのかは分からないが、夜も更けに更けている。無断外泊などしたこともない。家族は心配しているだろう。どれだけ怒られてもいいから、慣れ親しんだあの場所に帰りたかった。

 しかし見つめる先のアルドからは、答えは返ってこない。不安と焦燥が入り混じって詰め寄りたくなるが、そこまでの度胸もまたない。


「守り人様」


 しばしの沈黙の後、最初に部屋の前で会ったときのように、再びアルドが大洋に向かってひざまずいた。


「突然知らぬ世にお渡りになられて、ご不安は当然のことと思います」


 強い若者らしい太く張りのある声が大洋の頬をなぜる。まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるような声だった。


「……家には、帰れないんですか……?」

「分かりません。しかし私が知らぬだけで、貴方様をこちらにお呼びした聖女様や長老様方ならば、もっと確かなことをご存知でしょう」

「聖女様?」

「この天の世の守り人様でございます。貴方様の同じ年頃の美しい方で、一度お会いになっているはずです」


 そう言われれば思い当たる人物は一人しかいない。


「その聖女様には、どうすれば会えますか?」

「守り人様が望まれれば、いつでも。ただ今宵はもう遅い、どうか戻ってお休み下さい。夜が明けましたらすぐにでもお伝えしましょう」


 うまく言いくるめられているようにも思うが、もっともでもある。なにより大洋自身、まだまだ休息を欲していた。再びアルドに先導されて部屋に戻る足取りは、それでも先ほどよりは幾分マシなものに思える。何一つ解決はしていないものの、アルドとの会話でわずかな光明が見えたし、昼間の会話よりはよっぽど意思疎通ができた気がしていた。


「また何かありましたら、いつでもお声がけ下さい」

「ありがとう、ございます」

「私の役目です」


 言葉は素っ気ない。しかし声に固いものはなかった。

 明日またあの少女、聖女様や長老様とやらに会った時は、もっときちんと色々聞き出そう。

 そう決心しながらベッドに潜り込む。不安で眠れないかもと思ったが、それ以上に心身は疲弊していたらしい。夢も見ないほど深い闇に、大洋の意識はストンと落ちていった。

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