回答編 連人の嘘
この総合図書館には教科書や専門書が多い。日本文学カテゴリも評論や研究が多く、文芸作品の数は少なかった。検索端末に刊行年と詳細分類を入れるだけで三十九冊まで絞ることができた。そのリストから連人が書名を読み上げ、小夜が本から抜き出し、円堂が挿絵をチェックする。三冊目で目当ての本は見つかった。
「これだよこれ!」
小夜が開いて差し出した本を受け取るなり、円堂が叫んだ。距離はあったが、さすがに何人かが振り返る。
「センセー、静かに」
「あ、あぁ、すまないね」
「借りていきますか?」
「いや、すっきりしたから十分だよ。学生実験のネタも思いついたし」
「そりゃよかった。じゃ、もらいます」
円堂は内容に興味があるわけではないらしい。そんな気はしていた。連人は円堂から本を受け取る。
「とにかく助かったよ。ありがとう君たち、ええと――」
「日野原と新木です」
「そうそう」
ありがとう、ともう一度頭を下げて、晴れやかな笑顔で円堂は去っていった。
「日野原は? これ借りる?」
「そうですね……」
頷いたものの、彼女は手を出そうとしない。
「ほい」
目の前に突き出してようやく、彼女は本を手に取った。じっと表紙を見る。その表情の意味は読みにくいが、強いて言うなら戸惑いだろうか。
「思ったのと違ってた?」
「いえ……」
「じゃあ、持ってるのと思ったより違わない?」
彼女は表紙から視線を剥がしてこちらを見た。
「わたしはこの本持ってるなんて、言ってませんけど」
「言ってはいないけど、さっき円堂に渡したときにぴったり挿絵のところ出したから、把握してるんだなとは思ったよ」
持っていないとしても、読み込んでいる。
連人の指摘に小夜は軽く息を吐くと、一旦本を近くの机に置いた。そして彼女の鞄を開き、紙のブックカバーに包まれた本を取り出す。書名は見えないが、机の上にあるものと同じだろう。
「好きな本なのか?」
「さぁ……どうでしょう。なんとなくずっと、本棚に置いてあるだけです。いつも持ち歩いているわけでもないんですよ」
そう言って軽く撫でる。本自体がろくに見えなくても、ブックカバーの擦り切れ具合や、撫でる手つきから察せることはある。
「かえで先輩の感想文、その年の優秀作を取ったんです。私の入学前ですけど、毎年の優秀作を綴じたファイルが図書室にあって、読みました。どう言ったものか……小学校までの読書感想文とは全然違うなと思って。この本を読みたくなって、買いました。刷りは違いましたけど」
「増刷したんだな。内容は変わってた?」
「どうでしょう。版が変わるほどじゃないんですから誤字訂正くらいじゃないですか。違うものを読んだとも思ってないし、同じものを読みたいとも思ってないです。ただ……」
彼女は二冊の本に視線をさ迷わせる。
「本当に同じものを読んだのかなって違和感は、少しありました。この本はそこそこ面白かったけど、かえで先輩みたいには思えなかったから」
円堂かえでの感想文は、よほど印象的だったらしい。
「そりゃ違う人間だからなぁ。それとも、円堂かえでみたいになりたい?」
「かえで先輩みたいに? そんなことないです。結構ひどいんですよ、あのひと」
その文句は純粋な文句というより、近い距離からの愚痴に聞こえた。
「仲が良いんだな」
「違う学年としては、仲が良い方かもしれないですね。委員会で一緒になって、そこそこ話すようになりました」
「その本の話はした?」
小夜は手元の本に視線を落とす。
「一度軽く話題を振ったことはありますけど……『どんなことを書いたか忘れちゃった』って」
「なるほど」
忘れているから今回も、円堂かえでは友達に相談した。
もう一度自身の本を軽く撫でて、小夜は苦笑する。
「興味の無いことはすぐ忘れちゃうんです。いい人だけど、少し偏ってて。でも」
ああいう人じゃなければ、あの文章は出てこなかったんだろうな。
独白のあともう一度撫でて、小夜は自身の本を鞄にしまい込んだ。そしてこちらに向き直る。
「新木先輩、私の嘘、わかりました?」
彼女の嘘を暴くかどうか。訊かれたら答えると決めていた。
「円堂かえでが頼んだ友達っていうのは日野原じゃない。多分、同じ学年だった誰かじゃないか?」
課題図書が毎年違うなら、後輩の小夜に相談するのは不自然だ。その誰かがさらに小夜に相談したのか、違う理由で小夜に届いたのかまではわからない。とにかく、小夜はその『友達』になりたかった。
「円堂は、名前を覚えるのは苦手だが、出来事に関してはむしろ記憶力が良い。次に会った時には『前回本を見つけてくれた、かえでと同学年の友達』として認識してもらえる。それが欲しかった?」
「やっぱり新木先輩は騙せませんでしたね」
それは違う。連人は首を振る。
「日野原が騙そうとしたのは円堂でもオレでもない。自分だろ。円堂かえでに頼られる、同学年の――対等の自分だと思いたかった」
気持ちがわかるとは、言わないが。
連人の答えは正解だったのだろう。小夜は否定しなかった。彼女は問う。
「新木先輩は、追いつけましたか?」
「オレ? なんでオレ……あぁ、そういうことか」
どうしていきなり宣言して巻き込んできたのか。あるいは歓迎会のときに飛び入学だと打ち明けたのか。新木先輩なら。そう言われた理由にようやく気がつく。
「オレも飛び入学だって、誰かから聞いたのか」
隠しているわけではないから、そういうこともあるだろう。そして彼女の疑問は。
(追いつけたか? どう言ったもんかなぁ)
何を言うのが良いだろう。連人は人目をはばかるように周囲を見回した。それから言う。
「オレはなんつーか、ノリで引き受けたってことになってる。そもそも予定してた奴が急に辞退しての代員だからさ」
飛び入学制度を導入した最初の年に該当者がいないのは体面が悪いとかいう大人の事情があり、回ってきた話を断るほどの理由もなかっただけだと、そういうことになっている。けれど小夜の焦燥に似た何かも持っていないわけではないのだと匂わせる。追いつけたか、という疑問の答えは。
「追いつけた、とは言わないが、落ち着いたかな。追いつくとか追い越すとか、遅れてるとか進んでるとか、一本の軸に畳んじまうのはもったいないかなって、素直に思えるようにはなった」
世の中には、違う人間しかいないから。
「日野原も、そんなことはわかってるだろ? 工学部には行かなかったんだからさ」
小夜は円堂かえでになりたいわけではない。本当に円堂かえでを追いかけるのなら、彼女も工学部の機械工学科にでも入っていただろう。
「それは……わたしにだって、やりたいことがありますし」
(もう一押しかな)
「それでも『進んでる』感じが欲しいってんなら……そうだな、評論でも書いてみる?」
「はい?」
「ウチの会誌、評論もアリだからさ。読書感想文じゃなくて、大学生っぽい評論とか書ければ大学生っぽいじゃん?」
「トートロジーになってますけど……」
「気のせい気のせい。この本とかさ」
他人と比べても意味はないが、自分が歩いてきた道を振り返るのは有意義だ。その題材として、中学からずっと彼女の傍にあった書籍はきっと相応しい。
「会誌の締切は秋だ。それまで大学生っぽく履修登録とかレポートとかに悩んでろよ。そこら辺の奴らや、円堂かえでと同じようにさ」
飛び入学であれ通常入学であれ、入ったばかりで慣れない一年生だ。一緒に悩んだり相談し合ったりすればいい。
「そんな、簡単に……」
「自分を騙すよりは簡単だろ?」
後輩の沈黙は、少し長かった。彼女はやがて小さく笑う。
「自分に騙されるよりは、先輩に騙される方が楽かもしれないですけど」
「騙してないだろ、人聞きの悪い。ま、そのくらいでちょうどいいかもな。騙されたつもりでって言うだろ」
他人の言葉なんて話半分に聞いてみて、心に引っかかったものだけ残してもいい。特に、偶然遭遇した先輩の言葉なんて、聞き流してしまって構わない。
「それじゃ、貸出手続きしてくか?」
卓上の本を取ろうとしたら、先に小夜に取られた。
「セルフ貸出機があるじゃないですか。自分でやります」
自立心の高い後輩だ。
「オーケー、それじゃまた」
「ええ、ごきげんよう」
頭を下げる小夜に手を振って、連人は心置きなくカウンターに戻った。遠目に見守らずとも、あの後輩は貸出機の操作に困ったりはしないだろう。バーコードをかざすだけだ。
カウンター内の席に腰を下ろして、一息。
(上手くいくかなぁ)
どうだろう。わからない。上手くいったとしても彼女が頑張っただけだ。それでもつい、口を出してしまう。傲慢だとはわかっていても、自分が関わることで他人や世界が良くなることを諦めきれない。
連人もひとつ嘘をついた。
後輩の共感を利用して想像させたけれど、追いつきたい人なんかいない。具体的な目標もない。あるのは漠然とした思いだけだ。いろいろなことを、もっと上手くできるようになりたい。
この衝動に追いつける日が来るとも思えなかった。落ち着いた、というのは嘘だ。諦めた、というのが正しい。付き合っていくしかないのだと諦めている。だから手を伸ばせるときには伸ばすことにしていた。飛び入学だろうと他学部のゼミだろうと後輩の悩みだろうと同じように、やれることなら、やってみる。
(そろそろ次を考えるか)
四月。一年生はこれからの大学生活を考える時期だが、四年生は卒業に向けて履修を決めねばならない。企業や大学院の説明会だってそのうち始まる。各所に首を突っ込んでみようと考えていた。
(ま、少しずつな)
まずは読みかけの手元の本を読み終わるところから。読み終わった自分が、今より少しでも上手くやれることを期待しよう。
些細な嘘をひとつずつ 計家七海 @hakariya73
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