東堂知佳 第八話 悪女のプロローグ

 まるで聖人になったつもりだね。

 久しぶりに、私の姿をした影が話しかける。

 その影の正体は私の後悔と罪悪感だと思っていた。

 或いは私を責め立てる良心そのものかも、と。

 しかし、どうやらそれは違ったらしい。

 勝手に望んで、勝手に羨んで、勝手に失望した、そんな私に残った、私自身すら認知していなかった本音だった。

「昔から私は中途半端が嫌いだったよね」

 影は言う。

 笑いかけている。

 解いていく糸の中にある、たった一つの綻びに、私はずっと目を背けていた。

「香苗と仲が良かった時を思い出して、頼られた時は嬉しかったよね」

 鷺谷の面倒を見ていた時、私の後を付いてくる香苗を思い出していた。

 凪尾蘭と綾部純香の背中を押した時は、人見知りの香苗を思い出していた。

 米倉柚と湯井一葉を見守っていた時は、我儘を言って私の気を引こうとする香苗を思い出していた。

「中途半端なことが嫌いな私は、結局逃げられないんだよ」

「でも、私がそれに満足していただけだった」

 彼女達の相談に乗った結果どうなった?

 幼馴染だった米倉と一葉はすれ違ってしまって、冬を迎えた今は、殆ど会話すら無い。

 近くに居るだけで満足出来たはずの凪尾は、綾部に振られてしまって秋の終わりのコンクールで散々な結果を残してしまった。

「私が関わった人達は、等しく皆んな不幸になる。中学の頃、私がいじめたあの子みたいに、ね」

「じゃあ、鷺谷は?少なくとも、私は彼女を大切にしたいと思っている。あの子も、楽しそうに、見える」

 私の弱々しい言い訳に、影は少し笑う。

「もう気付いているんでしょう?私が傍にいるだけで、鷺谷は私を優先してしまう。それがどれだけ危ういことかって」

 なら、どうしろというのか。

 私は人と居てはいけない存在というのなら、世捨て人のように山にでも籠って霞でも食べていろ、とでも言うのか。

 薄っぺらのプライドが、全部邪魔していた。

 私の人生は、振り返ると、薄汚いものだった。

「そうだよね。分かっている、分かってるよ。逃げるな、って言うんでしょ?」

「望みを叶えたいというのなら、やるべきことは一つだけ。だよね?私」

 或いは、それが全てだというのなら。


 私は一つだけ、もう一度だけ。

 過ちを犯そう。



 ◇


 木枯らしが肌寒い。

 相変わらず教室はどこか騒がしくて、だというのに音が一つ抜けたようにもの寂しくて。

「私のせい、なんだよね」

 米倉も一葉も各々それぞれの友人達と楽しそうに話している。

 凪尾は一人でスマホを弄っていて、純香は美涼と何かを話していた。

 そんな中、鷺谷だけは変わらず私の側にいて。

 ひんやりとした机を温めるように突っ伏しながら私の方を見ていた。

「……知佳のせいじゃないよ。だって、望まれたから、知佳は相談に乗ったんでしょ?」

「違うの。確かに向こうから、かも知れないけど。でも、頼られることが嬉しかった。私自身、大した人間でもないくせに、その気になって調子に乗っていたのは、私」

 そんなことを言う私の手を、鷺谷は握る。

 冷たい手が、今は暖かい。

「優しいね、知佳は」

 彼女達を間違った道に歩ませたのは私だ。

 それを精算せずに、私ばかり幸せになることはできない。

 もっと言うのなら。

 昔虐めたあの子にも、贖罪する必要があると。


 逃げて来たこの場所で、逃げ続けることを選択出来たのなら、どれだけ楽なのだろう。

 だが、だけど。

 私は望んでしまった。

 許されることを、誤ちを贖罪することを。

 私の苛立ちと、真正面から向かい合うことを。


「このままじゃ、ダメね」

「知佳?」

 私は鷺谷の頭に手を置くと、少しだけ撫でる。

「少しは大人にならないと、ってことよ」


 この手が彼女に触れることが、最後にならなければいいな、と。

 祈りながら私は言う。



 鷺谷は私の決意に、何か勘付いていたようである。

 私の部屋に帰って来るなり、どこか悲しそうに目を伏せていた。

「知佳は、優しすぎるんだよ。全部自分の所為だ、って思い込んでる」

「思い込みじゃないわ。事実私のせいなの」

「違うよ、そんなこと誰が言ったの?香苗?それとも知佳の両親?私は知佳を肯定するよ?ずっと側にいて、知佳を守り続けるから、だからそんなこと言わないでよ」

 仲違いした、という訳じゃない。

 だけど最近の私たちは、少し昔のような関係とは違っていた。

 私が自分の罪と向き合う必要がある、と。

 心のどこかで思い始めてから、私は鷺谷の優しさを受け入れられなくなっていた。

「痛いのよ、ずっと。鷺谷が私を守ってくれるのは、嬉しい。だけど、それ以上に、辛いの」

「……知佳」

「だから、もう、終わりなのよ。終わりに、しよう?」

 鷺谷はきっと、泣くと思った。

 これが正解だなんて、私自身思っていなかった。

 それでも、言わざるを得なかった。別れを切り出す以外に、不器用な私はいいアイデアが浮かばなかった。

「それが、知佳の望みなら」

 だけど私の予想は外れていた。

 鷺谷は気丈に私を見る。

 目は潤んでいるけど、それでも私を強く見た。

「私は何があっても知佳を肯定する。それが知佳の望みなら、私が居ない方がいいのなら、それを尊重したい」

 やめてよ。

 そんなこと言わないでよ。

 手放せなくなってしまう。まだまだ鷺谷と居たいと思ってしまう。

 泣き出しそうになる心を押さえつけて、吐き出しそうになる言葉を押し込めて。


「ありがとう。鷺谷」


 私達は、一つの恋を終わらせた。


 たった一つの、私のたった一つの我儘の為に。

 彼女を酷く傷つけてしまった。


 過ちは必ず償わなければならない。

 過去は一つずつ正確に精算しなくてはならない。


 中途半端が嫌いな私は。

 負けず嫌いな私は。

 こうするしか、鷺谷を愛せる方法が無かったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る