米倉柚 第七話 告白 ②

 笑えるだけの余力も無くて、常に胸の奥がチリチリ痛む気分がずっと続く。

 ごめんね、と。一葉が言ったあの夜から、二日が経過していた。

 私は一葉にフラれた、と。その事実よりも何よりも、彼女と友人で居られなくなってしまつという現実の方が痛かった。

 あれだけ勇気をくれた佐々木君に、ダメだったよ、と報告するのは何故か気が進まなくて。

 それでも、この痛みを私の中でずっと燻り続けるには、私は弱過ぎた。

 悶々とした気持ちのまま、何も無かったかのように振る舞う一葉を見る度に、私は吐き気を覚える。

 胃液が迫り上がって来るのではない、きっとこれは後悔だ。

 詩的に言うのなら、青春の酸っぱさと言ったところか。

 なんて、自分を慰めるように戯けてみても、やはり気分が紛れる事はない。

 ふやけた気持ちを乾かすことも出来ずに、化膿していくのを見守るのだけは、怖かった。



 授業をサボったのは人生で初めてだった。

 同じ教室に一葉がいるということが辛かった。昼休みの間に屋上に忍び込んだ私は、始業の鐘が鳴っても、縁ベリに腰掛けたまま動けなかった。

 いっそ、このまま消えてしまおうか。

 そんな愉快な想像をしては、苦笑して否定していく作業を繰り返す。

 好きな人に愛されないということはこんなにも辛いことなのか。

 なんて、今更理解しても遅い痛みを、抱える。

 それでも、午後になって姿を消した私を一葉は心配してくれるかもしれない、という打算的な希望を持ってしまう自分自身が嫌いになりそうだ。

 もしかしたら、そんな事で、私という存在の大切さに気づいて欲しいとか。

 卑怯で下心しかない希望すらある。

「……馬鹿ね、アンタ」

 だけど、そんな私を見つけたのは、一葉じゃなくて。

「東堂、さん……?」

「なんとなく、分かってたわ。こうなる事くらい」

 何を分かっていたのだろう。

 私が一葉に告白して失敗すること?

 私が一葉のことを好きだなんて知りもしないのに、そんなことを予測できていたというのなら、それはもう、予知の類ではないだろうか。

 そもそも、東堂さんが、私から和葉を奪らなければ、こんなことにはならなかったのかも知れないのに。

 それを思うと、彼女が憎々しく思える。

 本当は、そんなこと、関係ないってことくらい分かっていたのに。

「東堂さんが……!アンタさえ、いなきゃ……!!」

 それでも、私の感情の捌け口は、彼女にしかないと、思ってしまった。

 彼女を責めれば、少しは楽になると思ったから。

 彼女に罪を被せて仕舞えば、少しは気が晴れると思ったから。

 弾劾するように、裁判長がガベルを叩き下ろすように、私は彼女の胸元目掛けて拳を叩き付ける。

「……ははは。可愛いじゃない、なかなかさ」

 それでも慈しむように、東堂さんは笑う。

 私の拳を掴むと半ば無理矢理引っ張り、歩き出す。

「な、どこに……?」

「もう教室に戻る気もないでしょ?あんたの愚痴に付き合ってあげるからさ、サボりましょ」

「……東堂さんて、いい人なの?」

 出来るなら、悪い人であって欲しかった。

 そうでもしないと、素直に憎める気がしない。

「少なくとも、善い人間とは言い難いわね。でも、ちょっとした心境の変化でね。善い人でありたい、とは思うようになったわ」

 彼女の言う、その言葉の意味は分からなかったが。

 それでも、彼女の引っ張る力は心強くて。

 もしかしたら本当に、一葉は東堂さんのことを好きで私を振ったのかもしれない。

 そんなことを思ってしまうくらいに、彼女は私なんかよりもずっと、魅力的だった。


 ◇


 幼い頃、私は隣に住む同い年の少女こそ、アニメや漫画に出てくる可憐なヒロインなのだと思い込んでいた。

 少なくとも、テレビの中で都合良く危機を乗り越えていくヒロインに自己投影するような幼さ故の夢想は、彼女の存在によって無縁となった。

 そこにあったのは、羨望でも嫉妬でも無かった。

 幼心に、世界はそういうものなんだ、と突きつけてくる当たり前さを享受するだけの純粋さが備わっていただけだ。

 無償の愛を注いでくれる二人の大人が両親だと理解するのと同じように、私は隣家の子のように或いはテレビの向こうのヒロインのように、無条件に愛されるような存在では無いのだと、知ってしまったのである。


 もし一葉が私に与えたものが、そういう無情な現実のみであったのなら、きっと私はもっと真っ直ぐに歪んでいたのだろう。

 一葉は、同時に私にあらゆるものを与えていた。それが私の性格形成にどのような影響を与えたのかまでは分からないが、彼女がいなければ今の私は存在しない、ということだけは分かる。


「だから、同じように、今の一葉を存在せしめているのは自分だと、自負していた?」

 ゴールデンウィークの出来事を懐古していると、テーブルを挟んだ向かい側で東堂さんがアイスコーヒーを飲みながら、私を蔑むように笑う。

 最早、半年近い前のことが懐かしく思われる。

「あはは……、相変わらず東堂さんは厳しいなぁ」

「アンタが壊れていくのは見てきたからね。優しい言葉じゃ、アンタは理解出来ないことも、知ってる」

 東堂さんは、本当に優しい人だ。

 こうしてあの頃のことを懺悔する役を、嫌な顔せずに真正面から引き受けてくれている。

「大人になんか、ならないでって、祈ったんだ」

「それは単なる我儘よ」

「子供のままで、いてほしいって、願ったんだ」

「それも単なる利己的な考えね」

 涙が落ちてくる。

 いや、涙だと思っていたものは、懺悔の言葉などでは無くて。

 もっと卑屈で、卑怯で、怯懦そのものの——。


「それを祈っても、願ってでも。私は一葉の隣が良かったんだ」


 整理するように、私の気持ちの履歴を吐露するも、幾分か自分自身を客観視出来た。

「そりゃ、あんだけ可愛らしい子を好きになっちゃったら焦る気持ちも分かるわよ。ぼやぼやしてたらすぐに彼氏の一人や二人、出来そうだもの」

「元々、ダメだったのかなぁ」

「……それを素直に話してみたら?」

「それ?」

 東堂さんのスマホは絶えず鳴り響いている。私のは電源を切っているけど、きっと鷺谷さんとかクラスメイトが心配して連絡を入れているのだろう。

 けれど、それを無視して、東堂さんは真摯すぎる程に私だけを向いている。

「湯井のせいで女の子らし夢を諦めたとか、あの子の知らないアンタの弱い部分よ」

「それってなんだか……、一葉を責めてるみたい」

「アンタら二人共、歪なのよ。お互いの事を何でも知ってるなんて、顔してる癖にさ。二人共相手に隠し事をしてる」

「それって、一葉も?」

「そうよ。しかも、それを隠すことがお互いにとって良いことだって勘違いしてる。少し位、喧嘩しなさい。じゃないと、もし運良く付き合えたとしても、上手くいかないわよ」

 まだ返す目があるかのように、東堂さんは言う。見当違いな希望なら、私に提示しないで欲しい。

「でももう、私は、一葉に拒絶されたくない」

「……拒絶、か。でも、まだ思ってるんでしょ?」

「……」

「湯井の横に居たい、って」

「……うん」

 なら、まだ諦めちゃダメよ。

 なんて、東堂さんは世の中を分かったような顔で言う。

 もしかしたら、彼女は本当に世の中を分かっているのかも知れない。

 少なくとも、私なんかよりは、ずっと大人だ。


「ね、東堂さん」

「うん?」

「大人になるって、辛いんだね」


 これが大人になるための成長痛だとしても、それはきっとまだまだ序の口なのだろう。

 それでも、大人になってしまう途上がこんなに辛いとしても。


「でも、大人になっても一葉の横に居たいってのは、やっぱり子供っぽいのかな」


 東堂さんは苦笑する。私の涙は渇いていた。

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