凪尾蘭 第六話 哀哭 ①
慟哭。哀叫。或いは単純に、悲哀。
それらを音で表現するのは存外に簡単だ。それは技術云々では無く、そういう演技だ。
ヴァイオリンやピアノ、声楽。主旋律を奏でる楽器達で感情を表現するのは、演劇に似ていると思う。そこに介在するのは、技術やテクニックでは無くて、心でのみ理解しうる経験や含蓄の類だからだ。
繰り返し言うが、私はそれを音で表現するのは容易い。幼い頃から弾き続けてきたヴァイオリンという楽器でそれを音にするのは、意識せずとも自然に出来てしまう。
一方で、私自身がそれを表現するのは難しい。悲しくても叫びたくても、何処か心の中に残った理性がそれを押し留めて、飲み込んでしまう。
私自身という楽器は、幼い頃からそういう表現をしてこなかったからに、違いない。
喜びや嬉しさは、いつだって表現出来る。感情を表に出すのが苦手という訳じゃない。
単純に私のこれまでの人生の中に、本気で泣いたり叫んだりしてしまう程の、辛い思い出が無い所為だ。
恵まれた環境——いや、周囲と比較して恵まれ過ぎている環境というのは、私から沢山のものを奪っていった。
でも心では分かっている。
例え多くのものを奪われているとしても、私の置かれた幸運的な環境は、それ以上のものを私に与えているという事を。
だというのに、与えられた物には目もくれず、奪われていった事実のみを恨んでしまうのは、やはり。
恵まれた環境に身を置いていたことの、証左である。
「むぅ」
と、アイスティーを飲みながら不機嫌さをアピールしたのは、美涼だった。
夏休みが始まって二週間。
私と美涼は、二人でファミレスで涼みながら、雑談している最中だった。
スマホにSNSの更新通知があったので、なんとなくそれを眺めてから顔を上げると、美鈴は唇を尖らせていた。
「どうしたの?」
すっかり敬語が抜けた私達の関係だったが、それでも育ちの所為か、未だに意識しないと自然と敬語になってしまいそうになる。
不意にそんな事に気づいて、自嘲混じりの微笑を浮かべて訊くと、美涼はアイスティーの入ったコップの氷を荒々しくストローで混ぜながら答えた。
「みんな予定合わな過ぎ。ほんとは旅行とか行きたかったのに」
「えーっと、東堂さんはバイトで、鷺谷さんが親戚の家に行ってるんだっけ?」
「ついでに言うと、柚ちゃんと一葉ちゃんは綾家族揃っての家族旅行だって。仲良いよなぁ」
「ま、唯一部活やってる美涼が一番暇してるのは意外だったけどね」
「ウチは殆どお遊びサークルみたいなもんだからねぇ。一応、今日は夜からバイトあるけどさ。で、綾部ちゃんはお仕事だっけ?」
「うん。明後日くらいから暇出来るって。まぁ今週中はみんな忙しいらしいね」
綾部さんは最近ようやくプロのアシスタントを一人雇ったらしい。秋からの連載に向けて今は色々準備しているという話を聞いていたが、あの綾部さんが知らない人と一緒に仕事出来るという事に、どこか成長のようなものを感じていた。
「そっかぁ……。蘭ちゃんは?夏休み中に予定は?」
「夏休みの最後の週に家族で旅行行くくらいかな。あとはいつも通り、ヴァイオリンのレッスンが週に3回あるけど」
「お、旅行いいじゃん。どこ行くの?」
「ええと、イタリアだよ。オペラを観に行くんだ」
「うわ、海外?めっちゃ羨ましいな。あ、でもオペラは興味ないけど」
「あはは。私も両親に付き合うだけだから、オペラはそこまでかな」
「お土産期待してるね」
「えー?食べ物系がいい?」
などと、夏休みの予定について雑談していると、またもや私のスマホが通知音を鳴らした。
半ば自然と画面を見ると、グループチャットへのメッセージ投稿で、私も美涼も入っているいつものメンバーのグループだった。
そこには、綾部さんのメッセージが上がっていて、今暇してる人いませんか?というものだった。
私と美涼は僅かに顔を見合わせてから、今ここに二人も暇している人間がいるという事を伝えると、すぐに向かうと言う返信があった。
「綾部ちゃんからこういう誘い珍しいね」
「確かに……。でも、明後日位までは忙しいって言ってたのになぁ」
と、僅かに疑問を抱きながら、窓外を眺める。
もう気付けば夕刻だ。
今から合流するというのも、どこか違和感がある。
綾部さんがファミレスに着いたのは、一時間後だった。
目の下にクマが出来ていて、どこか疲れ切ったような表情だ。
「仕事忙しかったん?」
どこか心配そうに美涼が訊くと、綾部さんは弱々しく笑って、少し控えめに肯定した。
「急に暇になったから、二人がいて良かったです」
「私らも暇してたから良かったよ。ま、私はあと少ししたらバイトあるから行っちゃうけど」
「あはは。それなら仕方ないですね。ええと、凪尾さんは?」
「私は今日一日中暇ですよ。美涼がバイト行ったあと、晩御飯でも行きます?」
「あ、それいいですね」
疲労の色は見えるが、いつも通りの綾部さんにホッとする。
何かあったんじゃないかと邪推していたが、そういうこともなさそうだ。
それどころか、二人でご飯に行けるという事実に、喜色を隠しきれているか不安ですらあった。
その後、一時間もしないうちに美涼は短期の倉庫整理のバイトに向かっていった。
残された私と綾部さんは二人でスマホ覗き込んで、晩御飯をどうしようか悩んだ挙句、珍しく綾部さんが何かガッツリしたものを食べたいと言ったので、しゃぶしゃぶ食べ放題の店に行く事になった。
女子二人で来るような場所じゃないかも知れないけど、どうにも綾部さんは相当お腹を空かしている様子だ。
もりもりと肉やら野菜やらを口に運ぶ綾部さんを眺めながら、やはりどこか様子がおかしいと、改めて思う。
だが、それを問うほど野暮じゃない。それどころか、今目の前にいる綾部さんの姿は、私の知らない一面の一つなのだと思っていた位だ。
今にして思えば、私は人心の機微に疎いようだ、と自省してしまう。
彼女は今、何かの悲しみなり悔しさなりを発散しようとしている事に、気付かずにいたのだから。
私は、馬鹿みたいに浮かれて、彼女と一緒にいる事実を噛み締めているのみだった。
それでも、私にとってその時間は至福の時だった。
そう思わずにはいられなかった。
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