凪尾蘭 第五話 過ぎ去る季節 ②

 私の好きな人は、笑うのが下手だ。

 ぎこちない、という訳でもない。嘘っぽい笑い方、という訳でもない。

 本能よりも先に、自らの胸の内に沸いた感情について逡巡してしまっているような、そんな笑い方だ。

 理知的な人なんだろうな、と思う。同時に、自分の感情くらいは素直に受け止めてもいいだろうに、とも思う。

 要するに、綾部さんは、そういう人なのだと思った。

 甘味処であんみつを掬い取りながら、素っ頓狂なことを言う鷺谷さんの冗談によく笑う。よく笑うのだけど、よく見ていると、破顔する数瞬前に少し躊躇してしまっているような僅かな表情の変化が見て取れる。

 私には、その感情の機微を理解出来なかった。いや、理解する必要のない人生だったと言い換えてもよいだろう。

 彼女は、懐疑的なのだ。

 世の中に、人の社会に——そして自分自身に。

 面白い、と思っても彼女は自分を訝しむ。周囲の反応を見て、笑っても良い、と確証するまで感情を明かさない。

(ああ……だから、か)

 だから、綾部さんが鷺谷さんと仲が良いのか、その理由の一端が分かった気がする。

 鷺谷さんは、何も疑わない。目の前にあるすべての現象を、映ったままに捉える。唯物論信者といっても良いだろう。

 だから、彼女は疑わない。もしかしたら、東堂さんが彼女と親しいのも、そういうところなのかもしれない。

 彼女の行動に打算的な意図は感じられない。欲求に対して回り道をしない。

 だから、心地よいのだ。

(そう考えると、鷺谷さんは、私とは真逆の存在、なのかも)


 綾部さんの感情の動きを紐解こうとして、そんな結論に達した私は、あんみつを食べ終えた頃には鷺谷さんという存在の不可思議さについても考え始めた。

 鷺谷さんの生き方を純粋だと換言するのなら、それは誰しも持っていたものだ。それを美しいものだと理解しながらも大多数の人間がそれを手放すのは、美しいだけのものは何も得にならないと理解するからだ。

 だから、殆どの人間は皆、純粋さを捨て去る。そうした生き方を、この世の中は推奨している。そう思ってしまうほどに、純粋さの持つデメリットは大きすぎる。

 だというのに、鷺谷さんはそれを保ったままここまで生きている。まるで、純粋さによるデメリットなど、初めから存在しないかのように天真爛漫に存在している。

 デメリットを恐れてそれを手放した私としては、それはとても許し難い存在に思えてならなかった。



「あ、柚ちゃんからイイね貰った」

 早速SNSに写真をアップした美涼がそんなことを言う。

 存外、高校生にとって放課後は短い。

 たかだかあんみつを食べただけなのに、駅ビルから出ると周囲は早くも夕暮れの景色だ。

 休日ならまだしも、明日も学校があるので私達は誰が言うでも無く解散する事になった。

 同じタイミングで帰宅、ということは。

 同じ中学だった私と綾部さんは同じ方向に帰るという訳で。

 すっかりそのことを忘れていた私は、同じバスに乗り込んだ事実に少し狼狽しながらも予想外の状況に少しばかり舞い上がっていた。

「……まさか、凪尾さんとこうして遊ぶ仲になるって思わなかったです」

 控えめな声量で、彼女はそうやって口火を切った。

「ええと、どうして?」

「だって、中学の頃、凪尾さんは人気者だったから……。凪尾さんは私の事なんか、覚えてなかったでしょ?」

 人気者、その言葉が僅かに胸に刺さる。クラスカーストなんて言葉は使いたくない。使いたくないけど、確かに彼女と私の学内での立場は真逆だった。

(私の夢は尊敬されて)

 そして、彼女の夢は馬鹿にされていた。


 ヴァイオリンが高尚だから?漫画がオタク的だから?

 それでも、彼女は周りの人間に馬鹿にされながらも夢に向かって努力し続けて、今はそれなりに結果を残している。

 責められている気分だ。

 何故貴方は私を助けてくれなかったのかと。何故皆から認められ、尊敬されながら、こんな公立高校で無駄な時間を過ごしているのか、と。

 綾部さんには、多分そんな思いはない。

 彼女の卑屈な考え方が、純粋にそんな疑問を浮かばせた、と分かっている。

 分かっているのに、私は言い訳のように言葉を使った。

「ううん、覚えてる。私は、貴方を尊敬してた。別のクラスだけど、私は綾部さんのこと知ってたよ」

「……尊敬?」

「ええ……。尊敬、してたの」

「それ、嘘、だよね。だって、中学の時の私を知っていたなら、尊敬なんて出来ないよ。あれだけ周りから馬鹿にされて、陰口を言われて、嘲笑されて……」

「綾部さん……」

 それでも、彼女にとってそこまで深く重い傷になりながらも直向きに夢に向かって努力できた理由は何だろう。

 それを知りたい。

 それに触れてみたい。

 俯く彼女に私は手を伸ばそうとした時、バスが揺れる。

「ご、ごめんなさい」

 揺れた衝撃で、綾部さんは私の胸元辺りに倒れ込んだ。

 少し驚いたように綾部さんは慌てて謝りながら姿勢を戻すが、私は彼女の両肩を勢いよく掴んでしまう。

 完全に勢い任せだった。彼女に触れたいと思った。離れないで欲しいと思った。

 それを言葉にするには、それこそ詐欺屋さんのような純粋さが必要だとも思った。

 だから、私は言葉を目まぐるしく引き寄せながら、言い訳がましく純粋さとは程遠い言葉を吐いた。

「尊敬してたってのは、本当なの。本当はね、貴方が漫画を描いていたの、知ってた。放課後一人で一生懸命漫画を描いていたの知っていたから。周りの言葉なんか気にしないで、夢に向かう貴方を本当に尊敬していたの」

「……凪尾さん」

 ありがとう、と唇が動いた気がする。

 それが音にならなかったのは、彼女のどこか安堵したような表情に目を奪われて言葉まで聴く余裕はなかったからだ。


 私はこれでまた一歩、綾部さんの心象を良くできたものだ、と満足していた。

 それでも、私はこの時まだ知らなかった。

 綾部純香という女性が、凪尾蘭という女性に対して、何を思っているのか、ということを。

 知っていた筈なのに、忘れていたのだ。

 綾部純香は懐疑的なモノの考え方をするのだということを。


 私の高校一年の初夏は、こうして過ぎていった。

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