東堂知佳 第五話 変わっていくモノ ②

 そこに合一性を見出すのは、愚かな者の行為である。即ち、自分自身の本性そのものを悪と見るか善と見るか、或いは、経験的な重ね合わせを以て、どちらであるのかという二元論的な結論に帰結するということに、何の意義も持たないのだ。

 湯井は確かにそう言った。

 たった一度の善行が、これまでの罪を帳消しにすることは出来ないし、たった一度の悪行がそれまでの正義を無かったことに出来ない。

 善悪は二元論的な見方では決して測れず、対立する関係でありながら、それらは不可分な物であって、合一性すら持ち合わせていない自己嫌悪と自己礼賛の為の手法と道具に過ぎない——と。

「だから私は、誰かにとっての期待を、無責任に演じてるんだよ」

 と、言う。

 それは、湯井が何故、幼馴染でもあり親友でもある米倉に対して、自分を偽る様な真似をしているのかという問いに対しての回答だった。

 どうにも、湯井は米倉がとある男子との恋愛に夢中で暇していると言うので放課後は何となく一緒に駅前の喫茶店で駄弁ることにした。


 湯井の持つ哲学は、一見彼女らしからぬシニカルでアイロニー的なものだった。思わず私は苦笑して注文したコーヒーに口をつける。

 一方で長ったらしい名前の甘ったるそうなドリンクを嬉しそうに飲む湯井の姿は、私に新しく見せた姿とはまた別の、以前のものだった。

「でも、私が柚の前で見せてる姿も、今知佳の前で見せてるこの姿も、どっちも私だよ。演じてるわけじゃないよ、なんていうのかな、使い分けてるって感じかな」

「そりゃ、疲れる生き方ね」

 と、歯に衣着せぬ言い方で雑に感想を述べる。不思議と、悪友とはこういうものなのだろうか、と思った。

「知佳もそうでしょ?」

「何が?」

「そういう二面性があるところ」

 湯井は指摘する。

 果たして彼女の様な二面性が私にあるだろうか。私の本質は間違いなく隠されている。

 少なくとも、今この環境においては。だが、隠しているとは言え、いや、隠していると表現している以上、外に向けている私は演じているに過ぎない。

 私には二面性すらない、純粋無垢な悪辣しか内面には存在しないのだ。

 だからそれを否定する。

「そう?そうやって露悪的な言い方するのは、自分が大嫌いだからじゃないの?大嫌いだから、弁護するように自分を傷つける。知佳の嫌いな部分と、弁護したいほどに好きな部分がある。そう思えない?」

「そう……なのかしらね」

 それは、罪悪感を無しに自身を肯定することの出来る魔法のような言葉だ。躊躇してしまう程に甘美な響きだ。

「二面性のある人ってね、他人に期待はしないんだよ。だから、私に期待しない知佳だから私はこういう自分を出せてるのかもね」

「期待?」

「まぁ、半分は自業自得なんだけどね。ほら、私って結構美人でしょ?だから、貞淑さとか、顔に見合った優しさとか性格とか趣味嗜好とか。そういうのを求められるんだよね」

「あはは。やっぱり自慢じゃない」

 と、笑って見せたが、何となくわかる。

 人は、他人に対して第一印象通りの内面を期待する。例えば、眼鏡をかけて髪型も目立つようなものじゃなければ、そこに人は真面目さを期待する。明るい髪色で化粧もバッチリ決めているような子だったら、人はそこに溌剌さとか活発さを求める。

 そしてそれが想定と違う場合、勝手に期待した癖に勝手に非難するのである。

 それを避ける為の使い分けだというのなら、湯井はそれなりに賢い。

 それだけに、顔が良いというのは、一方的に良いことだけではないということを痛感する。

「まぁ、でも。米倉がアンタに何かを期待してるってのは分かるわね」

「柚はね、私以上に真面目だから。私の横にいる限り、可愛らしさよりもカッコ良さを優先しなきゃ、って思い込んでるの。中身は私なんかよりよっぽど乙女なんだけどね」

「なんていうか、不器用ねアンタ達」

「でも、私から見たら、知佳と詩乃の関係も不思議だよ」

 鷺谷の名前が不意に出て来て、コーヒーカップを持つ手が止まる。

 何となく、今は顔を合わせたくないのは、私の弱さを見せてしまったのもあるが、それ以上に、彼女に対して何故あんなにも無防備になってしまったのかが不可解だったからだ。

 だからこそ、湯井とこうして何でもない話をしている中でも何処かで意識していたのだろう。

 不意に動きを止めた私を見て、湯井は目を細めて軽く笑う。

「わかりやすいね、知佳は」

「揶揄わないでよ。それで、私と鷺谷の何が不思議なの?」

「基本的には他人を信用したり期待したりしない知佳がさ、何で詩乃だけには期待したり信用したりしてるのかなって」

「そんなこと、してる?」

 仮に本心がそうだったとしても、これまで自分自身すらも騙して来たのだ、他人がとやかく察することは難しいと思うのだけど。

「見てたら分かるよ。だから、今日は鷺谷さんを避けてたんでしょ?」

「……まぁ、そこは否定しないけど」

「興味ない人に対して、人ってそこまで思い悩んだりしないよ。普通はさ」

 普通、ね。

 と、私は喉の奥で呟く。それは決して音にならない声だ。

 しかし、いや、そうか。

 私は鷺谷に対して、何かを期待していたのか。或いは、何かを信用していたのか。


 ともすれば、何を期待し、何に対して信用していたのだろう。

 それを紐解く事は、少しの、ほんの少しの勇気が必要な気がして、その謎の表象をなぞるだけに留めた。

 その代わり、私は自身の心の変遷を解くことにした。

 確かに、私は鷺谷に会って変わった気がする。いや、変わり始めている。

 誰かに対して比較的柔和な態度を取ることに、打算的な心情は減少しつつある。全くもって無い、とは言い切れない。

 だが、それでもそこにあるのは私を良い人だと騙る意図は無く、或いは後に利用してやろうなんていう野望すら無い。

 そこにあるのは、全くの保持だ。今ある関係をそのままに保持したいという願望と、加えて、より良い関係を望むという自己憐憫があるのみだ。


 そこまで考えて、私は自分が情けなくなる。

 かつて犯した罪の贖罪すらせず逃亡したのは、贖う術が無かったから、という願望だ。

 その攻撃性の原因を、自身の性格を形成した全ての元凶に押し付けて、目を閉じたまま遠くへ離れた。

 あとは粛々と、目立たず、幸福さを求めさえすれば良いのだと思っていた。

 それこそが、私に許された精一杯の自由なのだと。幸福の実現性の多寡は関係無く、求めることだけが許されているのだと、そうやって自分を慰めた。

 だというのに、現実はどうだろう。

 私は、罪を逃げるのに飽き足らず、別の形の贖罪を利用してまで無かったことにしようとしているでは無いか。

 その上、誰かに何かを期待する、何かを信用するなどという、健全さすら求め始めている。


「厚顔無恥にも、程があるわね……」

 私は苦々しく呟いた。

 私の思考の順序を知らない湯井は、少し不思議そうな顔をしてから、柔らかく笑う。

「変わっていくことってさ、過去の自分を否定することなのかもね」


 だとするのなら、私が変わるには、過去の罪や自分を否定しなくてはならないということだ。

 それはとても、積極的には肯定できない、哲学であった。

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