東堂知佳 第四話 夜の中で影を探す ①

 汚い空気を吸い込んで、咳き込む訳でも無く。

 清涼さとは無縁の故郷は、比喩的表現を用いずとも、澱んだ空気を揺蕩わせていた。

 人と人の間に生まれる空気も、あるいはそのまま辞書を引いたまま一番最初の説明文に載っている意味の空気も、汚れて濁って澱んでいた。

 だから私は、この場所に来てから、深呼吸をすることが多くなったのだろうか。

 朝の冷たい空気も、潮の匂いが混じる昼の空気も、肺腑まで直接滑り込むように清廉な夜の空気も。

 どれも、私の知らないものだった。

 人は、取り込んだ物が変われば、自身そのものを変えられるのだろうか。

 あの頃の、嫉妬と羨望と——悪辣さに塗れた自分を変えられるのだろうか。

 変えてしまっていいものか。

 大なり小なり、私は人一人の人生を変えてしまった。幸か不幸か、私は彼女のその後を知る由もないが、それでも私の悪辣さの標的となった彼女は今も、私のしでかした事の影響から抜け出すことはないだろう。

 それだけのことをしてしまったというのに、私はそんな過去を、贖罪を、済ますことなく、一人で、こんな場所にいていいものだろうか。


(昔の私だったのなら)

 罪悪感を感じながらも、過去は過去だと割り切っていたのだろうな。

 その罪悪感の由来すらも、罪悪感すら感じない自分の性根を否定したい位の理由だったに違いない。

「……知佳。暇なんだけど」

 グデーっと寝転がる鷺谷がまるで私の所為のように非難する。

「勝手に来た奴を何でもてなさなきゃいけないのよ。暇なら帰りなさいよ」

 私といえば、目の前で繰り広げられる綾部と凪尾の初々しいやり取りを眺めながら、ボーッとしていた。

 どこか、心の底で昔のことを思い出しながら。

 やはり、というか律儀な綾部は私達が手伝った漫画が載った雑誌を持ってやって来た。

 どこか嬉しそうな表情だった綾部だったが、待ち切らずに早朝から来ていた凪尾の姿を見ると僅かに硬直して、いつもの人見知りな彼女に戻っていたが。

 で、凪尾の方はというと、あれだけ気合を入れていたのに舞い上がってしまったのか、言葉数も少なく、お互い会話が上手く進んでいない。

 助けを求めるように、綾部も凪尾も私の方をチラチラと見るが、そこまで手助けする義理はない。

 二人がどうなろうと関心は無いし、どちらか一方に肩入れする必要もない。


「ね、知佳」

「何よ、暇なら外でも歩いてくれば?」

「じゃあ、知佳も付き合ってよ。一人じゃつまんない」

 どんどん鷺谷は我儘になっていくな、と彼女が私の何を気に入ったのかまでは知らないが、最近の鷺谷は私を彼女の母親か何かと勘違いしてるんじゃないかと思ってしまう時がある。

 もしかしたら、あまりにも面倒をみた所為か、本当にそう思ってるんじゃないだろうか。

 溜め息を吐いて、私は仕方なく外に出る準備をする。

 どの道、今日の夕飯の準備も必要だった。

「二人はどうする?」

「あ、私は午後用事あるので……」

 と、綾部は軽く断る。露骨に凪尾はガッカリした表情を浮かべた。

「では、私もそろそろ」

 と、手土産の洋菓子を置いて帰る準備を始めた。


 結局、二人きりになってしまった。

 まだ五月も始まったばかりだというのに、少しばかり蒸し暑い気候だ。

 暑いのが苦手らしい鷺谷は薄らと汗ばんでいる。

「今日は何食べるの?」

「んー、そうね……」

 と、冷蔵庫の中身を思い出す。確か、野菜はまだ結構残ってたはずだ。

 それならバラ肉でも買って野菜炒めでもいいか、とその旨を伝えると、「えー、もっとガッツリしたもの食べたい」と不満を溢す。

「……人の家で飯食べる気満々じゃない」

「ほら、今日の分は私が出すからさ。唐揚げとかにしようよ」

「それなら別に構わないけど……結局作るのは私なのよね」

 最近毎日の様に鷺谷は家に居るので、最初から鷺谷を頭数に入れていた自分に気づいて、思わず文句が口から出る。

 これじゃまるで、

(本当に親子のようだな)

 私には縁のない言葉だと思っていたが、まさかそんなことを思う日が来るとは。

 相手が同級生ということを考えると、何故か少し笑えてしまうのだが。


「ふぅ……やっぱり知佳のご飯は美味しいね」

「……はいはい。ありがと。皿洗いはあんたがやってよね」

 テレビ番組を見ながら私はゴロンと横になる。

 鷺谷が皿洗いをする音を聞きながら、興味の無いバンドがテレビの奥で曲を披露しているのを眺める。

 その内に、ウトウトと微睡んでいく。鷺谷が何かを言っている気がするが、既に睡魔は私を捕まえていた。もっと現実的に言うと、食事の後の血糖値の上昇が、私を微睡の奥へと誘っていた。

 夢は見なかった。

 代わりに、私の横に鷺谷が同じ様に寝転んだのを感覚で感じる。

「……」

 寝言だろうか。

 朝居眠りの中で、鷺谷が何かを呟くのを感じながら、私はまとまらない思考を捨て置いたままに、更に微睡の奥へと向かおうとする。

 瞬間、突如として腕に何か重みを感じた。

 仕方なく目を開けると鷺谷が私の腕を枕に寝息を静かに立てている。


「本当に無防備ね……」

 鷺谷が私の中に何を見出したのだろうか。

 彼女がここまで私に対して懐く理由は何なのだろうか。

 そんな疑問が脳裏を過るが、睡魔の鎖に囚われたままの私は、再び目を閉じる。


 ——もしかたら鷺谷は。

 私をほんの少しだけ、まともな人間に作り変えてくれる存在なのかもしれない。

 そんな、取り留めのない希望が、私の中に芽生えて来たことを、知らぬまま。

 私達は二人、並んで夜の中に沈んでいく。

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